漢字の筆順をめぐって―学校教育を批判する

あべ・やすし

はじめに

 わたしは「漢字という障害」において、漢字学習の困難だけでなく、漢字教育のむずかしさとジレンマを紹介し、日本語をよみかきするうえで、漢字がおおきな障害となっていることを指摘した(あべ2006)。なぜ、漢字教育はむずかしいといえるのか。それは、「日本語には、2000字もの漢字がつかわれており、その漢字には訓よみと音よみがあり、画数もおおく複雑な字づらのものが大量にある」からである(同上:159)。漢字をよむのは、むずかしい。そして、漢字をかくのも、むずかしい。それは、日本語をはなし、漢字のよみかきを学習したひとなら、だれしも共感できることだろう。むずかしいからこそ、何度も漢字テストにつきあわされてきたのだ。

 ひとは、なにかをおしえるさいに、なんらかの指針となるものを必要とする。おしえるうえでの根拠となるものがなければ、こころもとなく、不安になり、うそをおしえているような気分になってしまう。おしえてみれば、わかることだ。じっさい、わたしにも経験がある。いってみれば、おしえるひとにこそ、テキストは必要なのである。

 漢字をおしえるのも、おなじことだろう。質問をうけたときに「きちんと説明したいから」という理由から、漢字のテキストを必要とするのは、ごく当然のことである。だが、今回といなおしてみたいのは、専門家による漢字研究の成果が、教育実践において、どれほど活用されているのかということにある。いいかえれば、漢字研究と教育実践は、どれほど接点をもちえているのか、ということである。ここでは、漢字の筆順の問題を中心にとりあげてみたい。筆順の問題は、「てがき文字へのまなざし」でとりあげたように、いきすぎた規範主義の一例として、批判的に検討すべき課題である(あべ2003)。結論をさきどりすれば、「二画以上の文字であれば二通り以上の筆順があって当たり前」なのである(こばやし2003:56)。だが、それを指摘するだけでは「正しい筆順という幻想」は、のりこえられないだろう。

1. 『漢字指導の手引き』をめぐって

 なかの まきは、「左手書字をめぐる問題」という論文で、つぎのように説明している。

 「正しい」筆順というものは明確に定められてはいない。学校教育では、文部省『筆順指導の手引き』によって示されている。そこで示された規範は「はやく、正しく、きれいに」書くためのものであって、その根拠は「先人の知恵」という慣習によるものである(なかの2008:68)。

 それではここで『筆順指導の手引き』に注目してみよう。藤堂明保(とうどう・あきやす)は、『漢字の過去と未来』において、つぎのように解説している。

 書き方の強制と並んで、教師と児童を悩ませているのが「筆順」の強制である。これは文部省に責任がある。昭和25年[1950年―引用者注]ごろ、文部省国語課の人が、さる書家に頼んで当用漢字を書いてもらい、当事者であったある役人が主となって「筆順の手引き」というものを出版した。わたくしの聞くところでは、これはもと国語課の役人の私的な出版物であったという。ところが世間では、これを文部省の出したものだと思いこみ、後生大事にそのまねをした。その時にサンプルを書いた書家が、もし戦時戦中と同じ流儀を伝えた人であったなら、問題は小さかったはずだが、たまたま行書の筆法を楷書に持ち込むくせのある人であったから、戦前戦中の教育を受けた親たちと、今日の子どもたちの間に、筆順が目立つようになった(とうどう1982:200)。

 最近の著作では、阿辻哲次(あつじ・てつじ)が『漢字を楽しむ』で『筆順指導の手引き』について、つぎのように説明している。

 筆順はもともと楷書や行書あるいは草書など、書体によってことなっていたもので、またおなじ書体であっても何とおりかの書き方があって、統一されたものではなかった。しかし学校で子どもたちに漢字の書き方を指導するうえでの混乱がないようにとの配慮から、筆順の基準となるものが考えられ、それが昭和33年(1958)に文部省から「筆順指導の手引き」という名前で発表された。これははじめ政府の内部文書として作られたものだったそうだが、しかしほかに同様の著述がなく、さらに文部省の名前を冠して出たものだから、いつのまにか絶対的に正しいものと認識され、いまでは筆順に関する規範とされるようになった(あつじ2008:103)。

 だが、そもそも『筆順指導の手引き』の「前書き」には、「ここに取りあげなかった筆順についても、これを誤りとするものでもなく、また否定しようとするものでもない」と明言されていたのだ(同上:104)。

2. 「かきやすさ」のための筆順

 なかの まきは、「左手書字」という観点から、筆順の指導をつぎのように批判している。

 筆順は、書きやすいように書けばそれでよいものであろう。ただし、やはりはじめて文字をならう子どもや、日本語学習者にとって一応の基準が必要となる。問題は、教育者が「正しい筆順」にこだわり、それだけを考えてばかりいるから、「正しさ」にあてはまらない左手書字者への一応の基準を示せないところにある(なかの2008:72)。

 この点は、阿辻もつぎのように指摘している。

 要するに筆順とは、その漢字を書くときにもっとも書きやすく、また見栄えよく書けるようにおのずから決まる順序にすぎない。大多数の人は右利きだから、世間で認定される筆順は右利きの者に書きやすいようになっているが、左利きの人には当然それと異なった筆順があってしかるべきである(あつじ2008:104)。

 このように、筆順本来の性質である「かきやすさのための慣習」という点をかんがみるならば、「これまで縦書きでの書き方を基準に考えられてきた筆順が、横書きの動きにあわせて変化してもいっこうに不思議ではない」ということだ(同上:103)。

3. 学問をうらぎるもの―学校教育の管理主義的体質

 それでは、なぜ教育現場では筆順の規範が、ほとんど絶対的なものかのように想定されてきたのだろうか。それは、小林一仁(こばやし・かずひと)の『バツをつけない漢字指導』という本が、逆説的にしめしているのではないか。つまり、これまでの漢字指導は、バツをつけるためのものだったということだ。バツをつける「ため」とまではいえないとしても、すくなくとも、バツをつけるのを当然視してきたことは、明白な事実である。そして、それを正面から指摘したのが、「漢字テストのふしぎ」というドキュメンタリー作品であった。この作品は、長野県の梓川(あずさがわ)高等学校の放送部が製作したものであり、ウェブ上でも公開されている。書籍では、阿辻の『漢字を楽しむ』でくわしく紹介されている(あつじ2008:74-76)。

 小林は、『バツをつけない漢字指導』で、つぎのようにのべている。

 学校教育で、一つ一つの文字の筆順が、なぜ問題とされ、取り上げられるのか。…中略…人により、また時と場合により通る道が違い、どのルートを通っても目的地に着けるのなら、いずれの道順であってもよいのではないかというのが、柔らかな応じ方である。一つに限るというのは、管理的、統制的な仕方である、と思われる(こばやし1998:209-210)。

 そして、小林は「筆順はテストすべきでない」と主張している(同上:220)。漢字研究の成果によれば、筆順には「ひとつの正解」というものが、ほとんどないからである。あるいは、「流派によってちがう」という表現もできるはずである。学校教育という空間において、はたして、ひとつの流派だけが「正しい」とすることに、どれほどの「教育的意義」があるのだろうか。もし、学校という空間が学問的正当性ではなく、管理する思想によって支配されているのであれば、もはや議論の余地はなくなる。「ひとつの正解」は、教員の絶対的権力によって、いつまでも保障されることになる。だがそれは、学問をうらぎる行為である。

 なかの まきは、日本語教育の現場でも、筆順の規範が当然視されている現状をあきらかにしている(なかの2008:70-72)。日本語教育は、国語教育にくらべれば、まだしも日本語学の研究成果がいかされている空間であるといえるだろう。その日本語教育の領域においても、筆順の規範がいきのこっているのだ。教育実践においては、漢字研究の常識が、ほとんど活用されていないことをしめしているといえよう。

おわりに

 教育をかえるのも教育であるならば、保守主義で支配された教育は、いつまでも保守主義を維持しつづけることになる。教育実践の場には余裕がなく、学問の成果にふれる余裕など、ほとんどないのかもしれない。だが、今回とりあげた文献のほとんどは、一般むけの書籍がほとんどである。あるいは、つぎのような背景もかんがえられる。ひとは、自分にとって都合のよい情報にだけ、注意をむけるものだと。バツをつける側は、自分にはバツをつけないものだと。


 最後に、つぎのようにといかけることを、おゆるしいただきたい。


 学校教育は、いつまで学問を、うらぎりつづけるのだろうか。


参考文献

阿辻哲次(あつじ・てつじ) 2008 『漢字を楽しむ』講談社現代新書

あべ・やすし 2003 「てがき文字へのまなざし―文字とからだの多様性をめぐって」 『社会言語学』3号、15-30

あべ・やすし 2006 「漢字という障害」ましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別―言語権からみた情報弱者の解放』三元社、131-163

小林一仁(こばやし・かずひと) 1998 『バツをつけない漢字指導』大修館書店

小林一仁(こばやし・かずひと) 2003 「学校教育における「漢字」学習」『しにか』4月号、50-56

藤堂明保(とうどう・あきやす) 1982 『漢字の過去と未来』岩波新書

なかの まき 2008 「左手書字をめぐる問題」『社会言語学』8号、61-76

ましこ・ひでのり 2003 『増補新版 イデオロギーとしての「日本」―「国語」「日本史」の知識社会学』三元社

ウェブページ

長野県 梓川(あずさがわ)高等学校 放送部 2007 「漢字テストのふしぎ」『第29回東京ビデオフェスティバル』
http://www.jvc-victor.co.jp/tvf/archive/grandprize/tvfgrand_29a.html

松本仁志(まつもと・ひとし) 1997 「いわゆる「正しい筆順」の幻想」『広大フォーラム』29期2号
http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/29-2/hitujyun.html


(2008年 11月22日 掲載)


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あべ・やすし (ABE Yasusi)

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