あべ やすし
※これは、2000年の2月、山口県立大学の2回生のときレポートとして提出したものです。わたしの日本語表記論の原点です。なお、ごく一部だけ修正してあります。
2000年1月26日づけの朝日新聞に、野村雅昭のインタビューがのっている。 わたしがはじめてよんだ野村の文章は『日本語の風』においてである。ちょうどそのころ、わたしは漢字の訓よみに違和感を感じていたところで、野村の表記法におどろいた記憶がある。
さて、この記事を一般の読者はどのようによんだだろうか。とても興味がある。というのは、文化庁が1999年1月におこなった国語に関する世論調査におもしろい結果がでているからである。それによれば、漢字は「日本語の表記に欠くことのできない大切な文字である」と、72.8%のひとがおもっており、反対に、「漢字を覚えるのは大変なので、なるべく使わない方がよい」 とかんがえているひとはわずかに3.7%である。こうしたことからかんがえてみると、たいていの読者は野村のいうことにとまどいをおぼえるのではないかとかんがえられる。
では、そういった読者のために、漢字の問題についてわたしのおもうところをのべたいとおもう。そもそも、いまだに漢字を「表意文字」とよぶ学者がいることがおかしいのである。漢字は「表語文字」とよぶべきである。それは野村も『漢字の未来』で指摘している(105ページ)。ここでは、藤堂明保の意見をひくことにしよう。
…それぞれの漢語のもつ語音(字の発音)は、おのおの明白な、しかも特色ある意味をになっている。だから漢字の字形というものは、たしかにおもしろいにはちがいがないが、じつはたんに表わそうとした意味のたんなる「影ぼうし」にすぎないのである。漢字が俗に「表意文字」だといわれているのに幻惑されて(表語文字と言いかえたほうがよい)、ひたすら字の形ばかり問題にして、その漢字の代表する語音と意味とにさして注意を払わなかったのは、今までの大きな欠点であった(『漢字の過去と未来』70-71ページ・1982年・岩波書店)。
藤堂がここでのべているのは、ことばのオトに意味があるのであって、文字に意味があるのではない、という正当な主張である。しかし、一般では、漢語は漢字でかかなければ意味をなさないというひとがほとんどである。ひとによっては、「正字体」でなければ「ただしい意味」にはならないというひとまでいる。それはやはり「表意文字」といういいかたのせいであろう。
わたしは、かなでかくと意味がつかめなくなるような漢語はつかうべきではないとおもう。そうしないかぎり、みみできいてもわかる文章にはならないからである。わたしはみみできいてわかる文章をかくように、いつもこころがけている。それは、文章は「墨字(すみじ)」をよめるひとだけの独占物ではないとおもうからである。目のみえないひとも、点訳された一般の文章をよんでいることをけっしてわすれるべきではない。わたしは点訳を経験してはじめて、いかにわれわれが漢字にたよって文章をかいているかに気づかされた。現在、バリアフリーがすすめられていくなか、目のみえないひとのために、みみできいてもわかる文章をかくことも必要であるとおもう。
ひとによっては、日本語の国際化のために漢字はやめようというひともいる。しかし、現実は、日本国内でさえ、日本語はひらかれてはいないのである。田中克彦は、「アイヌに誇りをもつのが真の「先進国」」というエッセイで、(『ことばのエコロジー』収録・1999年・筑摩書房)「内における国際化もできていない人たちが、どうして外にむかって国際化ができるだろうか」(13ページ)とのべている。
日本語をひろくひらかれたものにするには、どうしても漢字は障害になる。それは、漢字が本来、特権階級の独占物であったことと無関係ではないであろう。これからは、漢字にたよらずに、点字になおしても、つまり、表音文字になおしても、無理なくよめる文章をかくべきである、というのがわたしの結論である。
(2005年 2月14日掲載)
※2021年 12月4日追記:このレポートのまえに提出した「文章をよりよみやすくするために」を公開しました。
あべ・やすし (ABE Yasusi)
はじめのページ | かいた論文 | よみかき研究 | おもいつくままに | リンク | roomazi no peezi