日本解放社会学会 (2003.3.23 中京大学)


障害学からみた日本語表記――漢字依存症という障害


あべ・やすし(韓国テグ大学修士課程)


※ この原稿では、部分的に わかちがきしてある。

1. 日本語表記の問題点

日本語を表記する文字として、2000字もの漢字と、ひらがな/カタカナがつかわれています。その一方で、日本語の点字では漢字はおろか、ひらがな/カタカナの区別もありません。

こーした てんじの せかいを きじゅんにして、いまの にほん しゃかいを ひょーげんすれば、にほんわ 「かんじ だらけの しゃかい」と ひょーげんできると おもいます(日本語点字のかきかたによる)。

また日本語の漢字は、きわめて ふくざつな つかわれかたをしています。漢字の つかいかたには、「訓よみ」と「音よみ」の2種類がありますが、この「訓よみ」というのは、日本語だけの漢字の つかいかたであり、朝鮮語や漢民族の言語では原則として、ひとつの漢字には ひとつの発音しかありません。日本語での音よみ/訓よみのつかいわけが、いかに不規則なものであるかについては、たとえば固有名詞での漢字をみれば わかりやすいかと おもいます。また、漢字には、かたちが ふくざつなものが おおく、それぞれの漢字をみわけたり、おぼえたりするのも、やさしいことではありません。これは漢字教育をうけたひとなら だれでも感じていることだと おもいます。

2. 漢字弱者をうみだす日本語表記

このように、漢字は、かずがおおく、つかいかたや、字のかたちが ふくざつなため、日本語を無理なくよみこなせるようになるには、ながい時間をかけた努力が必要となります。それだけでなく、この漢字だらけの社会から「おちこぼれ」ないように、「問題なく」日本語をよみかきできるようになるためには、さまざまな条件をみたしていなければなりません。その条件とは、日本語が第1言語であること、こどものうちからよみかきをならうこと、めが「ふつう」にみえること、みみがきこえること、字をよむのや、かくのに「しょうがい」がないこと、てさきが「器用」なこと、「知的しょうがい」がないこと、などが あげられます。つまり、日本語を第1言語としない「外国人」や日本への「帰国者」、日本手話を第1言語とするろう者、非識字者、識字学級や夜間中学にかようひと、めのみえない盲人、めがみえにくい弱視者、みみがきこえにくい難聴者、よみかきしょうがいをもつひと、知的しょうがいの ひとなど、さまざまなひとが日本社会で「漢字弱者」として生活しているということです。

しかし、いまの日本社会の現状では、こうした条件と能力が「あたりまえ」のものだと かんがえられ、「日本人」であれば、だれでも漢字まじりの日本語をよみかきできるものだと かんがえられています。そのためこうした「漢字弱者」の問題について、それほど関心がよせられてきませんでした。そうしたなかで、日本語教育(ろう教育をふくむ!)や障害児教育、識字教育のげんばで教育者たちは、「いかに日本語のよみかきを教育するか」、あるいは「いかに漢字を教育するか」という問題にとりくんできました。障害児教育の文献をみていくと、盲教育や、弱視教育などの論文や専門書などに、漢字教育について のべられたものが、かずおおく みうけられます。最近ではLD(学習しょうがい)の文献にも「漢字の問題」について かかれたものが みられるようになりました。

3. 漢字弱者と「リハビリ」

こうした漢字弱者への漢字教育を一種の「リハビリ」として とらえることができるかと おもいます。これまで日本の教育者たちは、漢字弱者のひとたちに「教育」という「リハビリ」によって漢字の問題を「克服」させることに重点をおいてきました。日本社会で差別をうけないように、漢字をよみかきできるように教育しなければならないと かんがえられてきたわけです。こうしたリハビリ主義的な漢字教育では、漢字をうまくよみかきできないのは「個人の問題」、「個人が解決すべき問題」として とらえられます。そこで、「漢字をどう効率的に教育するか」というのが教育の課題となります。

とくに、漢字をつかわない点字をつかう盲人には、さまざまなリハビリの道具が用意されてきました。それにはまず、活字を立体的にうかびあがらせる「オプタコン」という機械があげられます。このオプタコンをつかって漢字をゆびでよみとらせようとするリハビリは、みみが きこえないこどもに「くちびるのうごきだけ」で日本語のはなしことばを教育する口話教育に匹敵するほどの、「かみがかり的なリハビリ」だといえます。このオプタコンのほかに、点字で漢字をあらわすシステムが2種類つくられました。漢字の「かたち」を中心につくられた「漢点字」と、「訓よみと音よみ」を中心につくられた「六点漢字」のふたつです。漢点字は盲学校の教師によってつくられ、六点漢字は中途失明者によってつくられました。この点字で漢字をあらわすというシステムは、「ゆびでよむ」という、点字の特性にそぐわないものであり、やはり「かみがかり的リハビリ」といえます。このような「かみがかり的な」方法のほかに、盲人用のワープロがあげられます。これは漢字変換をするさいに、「詳細読み」という機能をつかって漢字をうちだす方法です。詳細読みというのは、「社会を構成する一員」という文章の、「構成」という漢字であれば、「構えるのコウ・成長するのセイ」というふうに、音声で漢字を説明する機能のことです。この詳細読みをきいて確認しながら漢字変換をしていくという方法があるわけです。これは漢字を学習したことのある中途失明者のばあいは対処しやすいわけですが、漢字をおぼえる以前に失明したひとや、うまれつきの盲人には、やはりむずかしいものだと いわれています。なぜなら、「どんなことばを漢字でかくか」ということさえ、「時代的ふんいき」によって、「なんとなく」きめられているに すぎないからです。たとえば、50年ほどまえからすれば現代では文章を漢字がしめる わりあいは、かなりすくなくなってきました。しかし、それは社会の「ふんいき」の変化によるものに すぎないのです。またそれぞれの漢字語が、どのような漢字の くみあわせに なっているのかをしらなければ、「ただしい漢字」をえらぶことはできません。

さて、このようなリハビリの手段や道具が、なぜこれほどまでに必要とされ開発されているのでしょうか。この原因を盲教育の専門家の、つぎのようなことばにみつけることができます。くろかわ・てつう(黒川哲宇)は、「点字問題をめぐって」という論文のなかで、「レポートや文書を提出する時に、通常の漢字仮名まじり文である方がよいに決まっている」とのべています(くろかわ1984:46)。このように、「障害児」を「ふつう」にちかづけるという、障害児教育を支配する同化主義的な発想こそが、盲人に対する漢字のおしつけを正当化する思想であるといえます。

4. 障害学からみた「漢字問題」

こうした現状を障害学の問題意識にたって かんがえなおしてみると、漢字弱者の「漢字問題」の本質は、漢字弱者をとりまく社会環境にこそあるのだと とらえなおすことが できると おもいます。この問題をわたしは2002年に発表した論文で「漢字という障害」と表現しました(あべ 2002)。日本語の文章は、漢字をまじえてこそ日本語になるのではないし、漢字まじりの文章はたんに「ふつう」で「一般的」であるにすぎません。なかには、漢字かなまじり文が最高のものだというひともいます。しかし、おおくの犠牲のうえに なりたつ表記法が「最高のもの」だというなら、それは「だれにとって」最高なのか、それこそ といなおす必要があります。さまざまな漢字弱者にとって いきづらい社会をつくりあげているのは、だれなのか。この漢字だらけの社会をかたちづくっている多数派こそが問題の中心にあるのではないか。障害学の問題意識にたってかんがえなおしてみると、このような発想の転換ができるとおもいます。つまり、漢字をうまくよみかきできないことを「機能的しょうがい」としてとらえるのではなく、漢字をつかわない日本語表記を想像すらできないことこそ、「漢字依存症」という機能的/社会的「障害」なのではないかということです。リハビリが必要なのは、「漢字弱者という少数派」なのか、「漢字依存症の多数派」なのか、社会全体の問題としてかんがえなおす必要があります。

5. 漢字依存症の健常者を解放するための「健常学」にむけて

最後に、わたしの政治的たちばについて のべたいとおもいます。わたしは「健常者」であり、漢字のよみかきには不自由していません。わたしも漢字だらけの社会をかたちづくっている多数派の一員です。この、多数派としての たちばから、どのように「漢字問題」に かかわっていけるのか、かんがえなければならないと おもいます。

障害学について、いしかわ・じゅん(石川准)は、つぎのように のべています。

障害者に感情移入して共感したり、感動したり、激励したり、庇護したり、憐憫したり、知ったかぶりしたりする健常者に、そのような「余計なこと」をする前に、自己のあり方を相対化し反省することを迫るような言説を紡ぎだしていくことが障害学には求められている(いしかわ 2000:42)。

ここで、この といかけに こたえるなら、漢字を不自由なくよみかきできる健常者は、わたしをふくめ、「漢字依存症」という自己認識をもつことによって、「自己のあり方を相対化し、反省」しなければならないのではないでしょうか。漢字依存症という自分のすがたをうけいれ、漢字依存症からの解放をめざすことこそ、わたしの障害学、そして「健常学」の出発点になるのだと おもいます。

わたしの もんだい いしきわ、「くるまいすで いどーする けんりが あるよーに、かんじお つかわない けんりも あるのだ」とゆーことに あります(あべ 2002)。それわ ことばお かえれば、「かんじお つかわない じゆー」お みとめよーとゆーことです。それお じつげんしていくためにわ にほんの たすーはが かかえている 漢字依存症お りはびりしていくことでしか、さいしゅーてきな かいけつわ みこめないのだと かんがえます。「にほんごわ かんじぬきでわ かけない」と かんがえている ひとが、「かんじお つかわないとゆー じゆー」お あじわってみたいと おもえるよーな、みりょくてきな かんじ ひはんお すすめていきたいと おもいます。

参考文献(あいうえお順)

あべ・やすし 2002 「漢字という障害」『社会言語学』2号

アンガー、J.マーシャル 1990 「漢字とアルファベットの読み書き能力」(うめさお/おがわ1990)

アンガー、J.マーシャル著、おくむら・むつよ(奥村睦世)訳 1992 『コンピュータ社会と漢字』サイマル出版会

アンガー、J.マーシャル著、おくむら・むつよ訳 2001 『占領下日本の表記改革――忘れられたローマ字による教育実験』三元社

いしかわ・じゅん(石川 准)/ながせ・おさむ(長瀬 修)編著 1999 『障害学への招待』明石書店

うえの・かずひこ(上野一彦)編 1996 『学級担任のためのLD指導Q&A』教育出版

うめさお・ただお(梅棹忠夫)1990「日本語表記革命――盲人にも外国人にもわかることばを」『日本語』3月号

うめさお・ただお/おがわ・りょう(小川 了)編著 1990 『ことばの比較文明学』福武書店

うめさお・ただお/あら・まさひと(荒 正人)/おおの・すすむ(大野晋) 1975 「漢字を使っていてよいか」おおの・すすむ編 1975 『対談 日本語を考える』中央公論社

おくむら・むつよ(奥村睦世)/J.マーシャル・アンガー 1987 「米国から見た日本語教育の基礎問題」『日本語教育』62号

かわかみ・たいいち(川上泰一) 1977 「漢点字の進路」『盲教育』52

かわかみ・たいいち 1992 「盲人と文字――漢点字の世界」『しにか』1月号、大修館書店

くらもと・ともあき(倉本智明) 1998 「障害者文化と障害者身体」『解放社会学研究12』日本解放社会学会

くらもと・ともあき 2000 「障害学と文化の視点」(くらもと/ながせ2000)

くらもと・ともあき/ながせ・おさむ(長瀬 修) 2000 『障害学を語る』エンパワメント研究所

くろかわ・てつう(黒川哲宇) 1984 「点字問題をめぐって」『特殊教育学研究』第21巻4号

こいけ・としひで(小池敏英)ほか 2002『LD児の漢字学習とその支援』北大路書房

ささき・まさと(佐々木正人) 1984 「盲人にとって漢字とは」(かいほ編1984)

さんのみや・まゆこ(三宮麻由子) 1998 『鳥が教えてくれた空』日本放送出版協会

しん・よんほん(慎 英弘) 1997 『視覚障害者に接するヒント』解放出版社

すえだ・おさむ(末田 統) 1999 「漢点字」『しにか』6月号、大修館書店

せお・まさお(瀬尾政雄) 1982 「点字使用者と同音異義の"漢字"想起について」『特殊教育学研究』第20巻1号

たかはし・みのる(高橋 実)監修 1999 『見えないってどんなこと』一橋出版

たなか・りょうた(田中良太) 1991 『ワープロが社会を変える』中央公論社

つじい・まさつぐ(辻井正次)/みやはら・もとひで(宮原資英)編著 1999 『子どもの不器用さ』ブレーン出版

つだ・みちお(津田道夫)編著 1984 『統合教育――盲・難聴・遅滞・自閉のばあい』三一書房

とくだ・かつみ(徳田克己) 1988 『弱視児の漢字読み書き能力――その心理学的研究』文化書房博文社

とくだ・かつみ 1991 「視覚障害者の文字習得」『日本語学』第10巻3号

のむら・まさあき(野村雅昭) 1988 『漢字の未来』筑摩書房

はせがわ・ただお(長谷川貞夫) 1977 「6点漢字と自動代筆・自動点訳」『盲教育』52

ふくい・てつや(福井哲也) 1996a 「パソコンと点字」『ノーマライゼーション』7月号

ふくい・てつや 1996b 「ワープロと視覚障害者」『ノーマライゼーション』8月号

ふくい・てつや 1996c 「情報障害という壁」『ノーマライゼーション』9月号

ましこ・ひでのり 1993 「差別化装置としてのかきことば――漢字フェティシズム批判序説」『解放社会学研究7』

ましこ・ひでのり 1994 「かきことば・お サベツ・の シュダン・に しない ため・に――かきことば・の シャカイガク(3)」『解放社会学研究8』

ましこ・ひでのり 1997 『イデオロギーとしての「日本」――「国語」「日本史」の知識社会学』三元社

ましこ・ひでのり 2001 「かな、そして ナショナリズム」『ことばと社会』5号

みやじま・たかし (宮島喬) 1999 『文化と不平等』有斐閣

やまだ・ひさお(山田尚勇) 1987 「文字体系と思考形態」『日本語学』8月号

やまだ・ひさお 1995a 「常用者のための日本文入力法の基礎的研究について」『学術情報センター紀要』第7号

やまだ・ひさお 1995b 「感覚障害者における大脳の言語処理機能について」『学術情報センター紀要』第7号

やまだ・ひさお 1997 「情報化社会の国際化と日本語」『学術情報センター紀要』第9号


(2004年6月 掲載。ごく一部のみ 修正してある。)


あべ・やすし (ABE Yasusi)

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