単行本『増補新版 ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』に収録。


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公開シンポジウム「〈やさしい日本語〉と関連領域」 一橋大学(2019年2月8日)


「ことばのバリアフリーと〈やさしい日本語〉」

あべ・やすし


愛知県立大学非常勤講師

日本自立生活センター常勤介助者

http://hituzinosanpo.sakura.ne.jp


ふりがなを つける

ふりがなを とる


1. はじめに―全体像と位置づけ

 わたしはこれまで何度か「やさしい日本語」について文章をかいてきました(あべ2013a、2018a、近刊)。今回は、日本の社会環境に注目し、ことばのバリアがどのような問題をうみだしているのかを考えたいと思います。


 ことばのバリアフリーのためには、やさしい日本語が必要です。それは、「人に情報のかたちをあわせる」ためです。「ことばの型」に人間を適合させるためではありません。できる範囲で、理解しあえるように努力すること、配慮することは、コミュケーションの場では、よくあることです。そして、それがうまくいかないこと、うまくできないことも、よくあることです。わかりやすく説明することも、才能の一種です。わかりやすく説明することが得意ではない人もいます。そこで大事なのは、「そもそも、ことばは、むずかしいもの」であることをみんなで確認して、「ことばがむずかしいと感じたとき、むずかしいといえる社会」をつくっていくことです(あべ2018a:103)。そのためにも、つぎのように、ことばのむずかしさを共有していく必要があります。

 ことばは、むずかしい。こまることがあって当然だ。だから、どんどん文句をいってください、わからないときは、わからないといってください。そのように、いっていくことが大事です。「これがやさしい日本語です」というのではなく、「ことばって、むずかしいですよね」ということが、逆説的に必要でしょう(同上:104)。

 ことばのバリアフリーのためには、環境を整備し、生活しやすくすることが必要です。しかし、「教育」の視点にたっていると、「環境に適応できたほうがいい」という発想をもってしまうことがよくあります。親心のように、期待をかけてしまいます。適応できるように能力を身につけることを要求してしまうことがよくあります。それは、一方的な人間像をもっているからです。人間には支配欲があるからです。けれども、いろんな人がいるのです。


 やさしい日本語をひろげていくことが必要であることは、異論がありません。多くの人にむけて発信される情報は、きちんと理解される必要があります。多くの人に理解されるためには、むずかしい表現はないほうがいい。わかりやすいほうがいい。当然のことです。わたしが問題提起したいのは、「やさしい日本語をどのような全体像のなかに位置づけるのか」ということです。

 全体像というのは、あるべき社会、あるべき言語コミュニケーションをどのように考えるのかということです。やさしい日本語を議論し、普及していこうとする人は、具体的に全体像を考え、議論し、そのなかで、やさしい日本語をどのように位置づけるのかを提示する必要があると思います。

 ある人にとって、全体像というのは多文化共生という理念であるかもしれません。わたしは言語権や「ことばのバリアフリー」といった理念のなかに、やさしい日本語を位置づける必要があると考えています。

 コミュニケーションの方法論として考える人、日本語教育の課題として考える人もいるでしょう。それぞれ、日常的に接している人のことを念頭において議論している人も多いでしょう。

 全体像のなかにやさしい日本語を位置づけることで、やさしい日本語では「なにができないか」「なにをしないか」をはっきりさせることができます。わたしの意見としては、やさしい日本語は万能ではないので、やさしい日本語の限界や、やさしい日本語以外の選択肢を考える必要があります。


 もうひとつ問題提起したいのは、「やさしい日本語ではないもの」にどのような名前をつけるのかということです(あべ2014)。「ふつうの日本語」でしょうか、「むずかしい日本語」でしょうか。「これまでの日本語」というふうに名前をつけることもできるでしょう。この問いも、やさしい日本語をどのように位置づけるのかという問題です。


2. 『認知症フレンドリー社会』―ATMの問題を例に

 『わたしは、ダニエル・ブレイク』という映画を見たことがあるでしょうか。ケン・ローチ監督のイギリス社会を舞台にした、2016年公開の映画です。主人公のダニエル・ブレイクは医者に心臓病の診断をうけ、大工の仕事をするのはやめたほうがいいと言われます。59才のダニエル・ブレイクは社会保障制度によって生活費の補助をうけようとします。しかし、制度の複雑さ、申請手続きのオンライン化、職員の態度などがバリアになって、うまくいきません。心をうちくだかれます。パソコンをそれまで使用してこなかったのに、書類もオンラインで提出することを要求され、就職活動をしていることの証明もオンラインで証明することを要求されます。

 機械化することで、利用者にとって便利になる。それが理想です。しかし、機械化によって利用がむずかしくなるという場合があります。機械化することで、わかりやすくなったとかバリアフリーになったと感じる人がいる一方で、むずかしいと感じる人もいます。機械化と無人化がセットになっていることが多いことを考えれば、機械化というのは利用者側の便利のためではなく、提供者側の都合になっていることが非常に多いといえるでしょう。


 たとえば、銀行のATMについて考えてみましょう。ATMというのが、そもそもローマ字の略語で、すぐに理解することがむずかしいといえます。通帳のお金の管理、振込みなどが機械でできるというものです。このATMのむずかしさについて、『認知症フレンドリー社会』という本で徳田雄人(とくだ・たけひと)は、つぎのように指摘し、読者に問いかけています。

 ひとつ例をあげてみたいと思います。

 ある町に、一人暮らしをするお年寄りがいたとします。このごろ、認知機能が衰えてきて、機械操作が苦手になってきました。お金をおろす際には、ATMではなく、人がいる窓口でおろすようにしていました。そんなときに、その町にあった銀行の支店が、統廃合の影響でなくなってしまい、ATMコーナーだけが残りました。そのお年寄りは、なんとかATMでお金をおろそうとしますが、画面操作が複雑で、うまくお金をおろすことができません。画面には小さな文字で多くの注意書きが並んでおり、「はい」や「いいえ」といった選択肢を正しく押さないと、次の画面へ行くことができません。周りの人に手助けしてもらいたいとは思うものの、見ず知らずの人に声をかけるのもむずかしい。お金を自分でおろしたり、自分で管理することもむずかしいので、介護施設に入る時期なのかもしれないと思うようになりました。

 この話を聞いて、これは誰が解決すべき課題で、何が課題の本質だと思われるでしょうか(とくだ2018:iii)。

 ここには機械化と無人化という、この数十年で一挙にすすんだ社会の変化が背景にあります。そして、高齢化による老眼、適応力の低下、孤立感によるコミュニケーションの問題があります。やさしい日本語の視点でいえば、ここでの解決策は「機械をわかりやすくすること」になるでしょう。しかし、ことばのバリアフリーという視点からいえば、機械をわかりやすくすることだけでなく、そもそも無人化しないこと、必要な人には介助を保障することが必要です。徳田は、つぎのような選択肢もあると指摘しています。

 ATMなどとは別に、高齢者向けに人が対応する専用のサービスを始めるという選択肢もあるかもしれません。日本ではまだ本格的には始まっていませんが、オランダやニュージーランドの銀行では、顧客サービスの一環として、高齢者の人向けに別室で対応するコーナーを設置する金融機関もでてきています(同上:v)。

 ATMのような機械を使用していると、どうしても、うしろにならんでいる人たちのことが気になってしまいます。あわててしまうのです。けれども、操作ができないというとき、ふがいなさを感じてしまうことがあります。ATMという設備そのものが、認知症フレンドリーではないのです。それは、さまざまな人にとっても共感できる話でしょう。


3. 大学という空間の内と外

 日本の大学というのは、とても均質な人たちの集まりであると思います。大学生というのは18才から23才くらいまでの人ばかりで、それ以外の学生はほとんどいません。日本の大学は、おどろくほどに、年齢の多様性がありません。たとえば、老眼の学生のことを考えた学習環境がどれだけ整備されているでしょうか。老眼の人も安心して学習できるような空間でなければ、たとえば60才以上の人が入学したいとは思えません。「学生は若い人」という固定観念が障害になって、大学という空間が均質な状態で維持されています。だからこそ、障害のある学生が入学するということが、「特別なこと」のようにとらえられるのです。

 学ぶということのありかた、学習スタイルが多様であるということは、すでにわかっていることです。社会には多様な人がいて、それぞれにとって、学びやすい方法があるのです。それをあたりまえの常識として、大学という空間をつくりなおすことが必要であるはずです。


 大学は均質な人たちばかりで形成されています。例外的に、留学生がいます。留学生は、年齢も比較的多様です。もちろん、国籍に関しては、留学生の国籍だけが多様なのではありません。日本の学校をかよってきた大学生にも多様な国籍の人がいます。とはいえ、外国人の親をもつ生徒の多くは定時制高校に通学し、大学には進学しない人が多いようです。高校に進学しない人もいます。大学進学は、ハードルが高いのです。

 そのなかで留学生は、貴重な存在であるといえるかもしれません。言語や文化、経験のことなる人が大学にいること、ともに学んでいることは重要なことです。やさしい日本語について考えるときにも、留学生は多くのことを示唆してくれるでしょう。


 しかし、日本社会で生活している人で、日本語が第一言語ではない人には、多様な人がいます。日本で生まれ育ってきた人、大人になって日本に来た人、高齢になって日本に来た人、漢字圏の人、非漢字圏の人など、多様な背景をもつ人がいます。日本語を学ぶことを目的として日本に来た人もいれば、仕事をするために日本に来ている人もいます。日本で子育てをすることになった人もいれば、単身の人もいます。日本に親戚、家族がいるから日本に来た人もいます。

 日本で生まれ育ってきた人で、日本語が第一言語ではない人として、日本手話を第一言語とするろう者をあげることができます。


 留学生だけを想定して「やさしい日本語」を議論していれば、その日本語は、そのほかの多くの人にとって、むずかしすぎる日本語であるかもしれません。日本語の文字には、漢字がたくさんあって、ひらがなもカタカナもあります。それが負担になり、そもそも日本語の読み書きを学びたいと思えないという人もいるでしょう。日本語をたくさん学んだけれども、それでもむずかしいという人もいるでしょう。そうしてみると、ローマ字の日本語がどれだけ普及しているかという問題があります。ローマ字のやさしい日本語が必要な人もいるわけです。一方、ローマ字だとむずかしい人もいます。


 学校教育のなかでバイリンガル教育がきちんと保障されていないという問題もあります。親が非日本語話者である場合、バイリンガル教育が必要です。親の言語でコミュケーションがとれること、読み書きができるようになることも必要です。


 ろう者の場合は、日本手話で学習できる環境が必要です。日本手話による教材(動画)が必要です。さまざまな情報を第一言語でアクセスできる環境があればこそ、日本語の読み書きのハードルも、さげることができます。多言語環境を整備することで日本語も学習しやすくするという発想が必要でしょう。ろう者の教員や学習支援員をふやしていく必要があります。


4. 中国帰国者にとっての日本語と医療

 高齢になって日本に来た人のなかには、中国帰国者とその家族がいます。日本語教育の歴史をふりかえってみれば、さまざまな人に対する日本語教育が実施されてきました。そのなかには、中国帰国者とその家族もいるわけです。中国帰国者支援・交流センターのウェブサイトを見てください(https://www.sien-center.or.jp)。このサイトは漢語(中国語)とロシア語にも対応しています。サハリン(樺太)に残留した(放置された)日本人もいるからです。

 中国帰国者支援・交流センターのウェブサイトの「中国帰国者支援・交流センターとは?」というページを見ると、「主な事業」として第一に「帰国者に対する日本語学習・交流支援事業」をあげています(https://www.sien-center.or.jp/center/)。つぎのような内容です。

・帰国直後の初期集中研修(首都圏センターのみ)

 永住帰国直後の入寮制の日本語・日本事情研修(6ヶ月間)


・定着後の自立研修(首都圏センターのみ)

 定着後の日本語・日本語事情研修(1年間)

 6ヶ月間の研修については、「初期研修」というページで説明しています(https://www.kikokusha-center.or.jp/tokorozawa/kenshu/shokikenshu_top.htm)。コースの種類として、年齢などで分類した6つがあげられています。たとえば、「大人1コース」は「高齢の帰国者一世を主な対象としたコース。心身の健康維持を目標に無理なく楽しく学ぶことをめざします」と説明しています。日本語学習を最大目標とはしていない様子がうかがえます。一方、たとえば中学生コースや小学生コースは学校での「生活に適応できるような力をつけます」と説明しています。


 高齢の中国帰国者への日本語教育については、本や論文などで紹介されてきました。たとえば、小田美智子(おだ・みちこ)は小学校の「適応教室」(取り出し教室)や東京都の自立研修センターの「大久保日本語教室」(1999年3月に閉鎖とのこと)での経験をふまえて、中高年の中国帰国者への日本語教育について紹介しています(おだ2000)。そのなかで、つぎのような指摘があります。

 中国帰国者の3割は非識字者と言われ、それは東北3省の農村出身者に多い。日中双方で正式な調査がなされていないため、正確な数は不明だが、学歴から推測して大久保日本語教室の場合、1994年10月の受講生を例にとると、14人中4人までが小学校を中退していた。数は少ないがクラスの28.6%で、ここから類推すると確かに3割に近い数である。テストの問題が読めず、何を求められているのか戸惑う様子を見て、中国語の漢字も読めないことを知るが、そのような日中ともに文字の読み書きが不自由な受講生に対して、特別に識字教育をすることなく、一律授業が行われていた。学習している単元の読み書きだけでなく、本来小学校レベルの漢字や英語のアルファベット等の補講が必要な人々である。日本社会で文字が読めないことによる行動の制約や経済的不利益は計り知れない(おだ2000:100-101)。

 最近の本では、小笠原理恵(おがさわら・りえ)の『多文化共生の医療社会学―中国帰国者の語りから考える日本のマイノリティ・ヘルス』があります(おがさわら2019)。7人の中国帰国者に聞き取り調査をしています(第7章「中国帰国者の受療の語り」)。第8章「中国帰国者の語りから考える日本の医療」では、「中国帰国者1世および一部の2世は、国の自立支援通訳派遣事業を利用」すれば「医療通訳支援」を利用できること(同上:210)、そして聞き取りをした語り手の場合、「毎回の通院に医療通訳支援を利用することはなく、入院や健康診断、いつもと違う異常を感じたときなど、必要に迫られたときにだけ支援制度を利用していた」と説明しています(同上:209)。また、つぎのように指摘しています。

医療通訳支援が利用できない2世たちは、必要最低限度を親族や知人に頼り、そのことをとてもすまないと感じていた。どちらの場合にも、多くの場面を片言の日本語と漢字による筆談でやり過ごし、慣れたかかりつけ医に身を委ねている様子がうかがえた。

 理解できない部分の3割は聞き流すという語り。会話は必要ないという語り。医師に伝わらなかったことは家に持ち帰り、次の診察で伝えるという語り。具体的に聞きたいことがあっても、日本語の問題からそのほとんどを飲み込んでしまい、悪化するまで家族の同行を遠慮しているという語り。限られた範囲の日本語では症状を伝えきれずに、結果、薬の処方も受けられなかったという語り。そもそもかかりつけ医もなく、医療受信ができていないという語り。教育歴が低く漢字の読み書きも不得手で、中国人でも漢字による筆談ができないという語り。帰国者らのこうした語りからは、聞きたくても聞けないことに対する自分自身へのフラストレーションや、そのことへの自嘲とあきらめが感じられ、日本語ができないのは自分たちの責任と捉えている様子がうかがえた(同上:209-210)。

 ただ、「帰国者たちはおしなべて「問題ない」、「医者はわかっている」と言い、日本の医療や医療者を厚く信頼し、「満足している」と語った」とのことです(同上:210)。もし医療にさえ不信があれば、とても不安になるでしょう。

 うえのような語りを見ると、ここには重大な問題があるように感じられます。「日本では日本語」という社会通念が強いがために、患者としての権利意識がもちにくい側面があるように思えるのです。患者の権利として、不安なこと、わからないことは質問していいはずです。そして、その不安を解消するためには医療通訳などの支援が保障されるべきです。これは、わたしの考えです。しかし、もしこのような考えをもつ人がたくさんいれば、医者が患者にわかりやすく説明することは当然のことだという考えが共通認識になるでしょう。患者が「聞き流す」ことも、すくなくなるでしょう。「聞きたいこと」を「飲み込んでしま」うことなく、質問しようとするでしょう。

 現実には、説明をうけたときに、「むずかしい」「わからない」と指摘できない場合があるのです。それは、その人個人の性格の問題というよりは、社会通念、社会環境の問題であると思います。


5. おわりに―単一言語主義をこえて

 木村護郎(きむら・ごろう)クリストフは、「外国語」という用語についてつぎのように指摘しています。

日本語以外の言語を指す「外国語」ということば自体、日本には言語が一つしかないという前提を含んでいる。国内に多言語に関する問題は存在しないというたてまえのもと、アイヌ民族や在日朝鮮人などの、「異言語」を使用する人々の日本語への同化が進められてきたのである(きむら2012:689)。

 たとえば、アイヌ語を外国語と表現するのはおかしいわけです。それでは、どのようにとらえたらいいのでしょうか。なかには、アイヌ語を「日本語の方言」ととらえてしまう人がいます。「日本は日本語」という固定観念があるせいで、日本では多くの人が単一言語主義的に考えています。国内少数言語という発想がないのです。「日本の少数言語」という概念のない人が多言語主義的に考えることはむずかしいでしょう。日本語と日本手話は異言語であるということも理解されないでしょう。


 やさしい日本語の議論は、日本の単一言語主義を強めることにつながる危険性があります。

 そうではなく、言語権を保障するためにやさしい日本語を議論するのであれば、言語継承のためにも、いろんな言語をやさしく学べる環境をつくっていく必要があります。たとえば、家族にろう者がいる人は、日本手話に接してきています。ただ、どれだけ日本手話ができるかは幅があるでしょう。簡単なやりとりしかできないという人もたくさんいるはずです。そうした人が日本手話を学びなおすことのできる環境が必要です。親の言語を話さなくなった人が、あらためて親の言語を学びなおすことのできる環境が必要です。やさしいポルトガル語なら理解できるという人が日本社会にいるのです。そうした人が「親の言語」を「自分の言語」と位置づけなおし、学びなおすことのできる環境が必要です。そして、親の言語を自分の言語として維持することのできる環境が必要です。一方、ろう者は親の言語が日本語である場合が多いです。だからこそ日本手話を身につけることのできる環境が社会のなかに必要です。


 日本語教育の領域だけで日本の言語環境の改善を議論していても、単一言語主義の問題を克服できません。多言語主義の理念をあらためて議論していく必要があると思います。そのためにも、やさしい日本語をどのように位置づけるのかを議論する必要があると思います。「やさしい日本語」の「関連領域」をこれまで以上にふやしていく必要があるでしょう。また、日本語以外の言語でどのようなとりくみあるのか、注目していく必要があるでしょう(すみ2014、2016a、2016b、あべ2018b)。


 ことばのバリアフリーは、本気でやろうとすると、じつは大変なことです。人に情報のかたちをあわせるというのは、大変なことです。けれども、環境をかえていくことで、バリアをへらすことはできると思います。わかりやすい文書をくばるだけでは、とどいたかどうか、わからない。それならば、いろんな場所に窓口があればいい。対面の窓口、遠隔の窓口があればいい。無人化をやめたらいい。大事なことは個別に連絡したらいい。そのときうまくコミュニケーションがとれなければ、訪問したらいい。ことばだけでなく、そういった社会の環境にも、注目していく必要があります。


参考文献

あべ・やすし 2010a 「均質な文字社会という神話―識字率から読書権へ」かどや・ひでのり/あべ・やすし編『識字の社会言語学』生活書院、83-113

あべ・やすし 2010b 「識字のユニバーサルデザイン」かどや・ひでのり/あべ・やすし編『識字の社会言語学』生活書院、284-342

あべ・やすし 2012 「情報の かたちを その人に あわせる、人の手を かりながら」 (http://hituzinosanpo.sakura.ne.jp/awaseru.html

あべ・やすし 2013a 「情報保障と「やさしい日本語」」庵功雄(いおり・いさお)/イ・ヨンスク/森篤嗣(もり・あつし)編『「やさしい日本語」は何を目指すか―多文化共生社会を実現するために』ココ出版、279-298

あべ・やすし 2013b 「金融機関の窓口における代読・代筆について」『社会言語学』13号、59-83

http://hituzinosanpo.sakura.ne.jp/abe2013b.html

あべ・やすし 2014 「言語的マイノリティをめぐる情報・コミュニケーションの課題」庵功雄ほか「第33回研究大会シンポジウム 言語マイノリティーへの情報保障」『社会言語科学』17(1)、143-144

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jajls/17/1/17_KJ00009727994/_article/-char/ja/

あべ・やすし 2015 『ことばのバリアフリー―情報保障とコミュニケーションの障害学』生活書院

あべ・やすし 2018a 「ことばのバリアフリーと〈やさしい日本語〉」『学習院女子大学主催シンポジウム〈やさしい日本語〉と多文化共生 予稿集』103-108

http://www4414uj.sakura.ne.jp/Yasanichi/2018symposium.html

あべ・やすし 2018b 「情報保障に関する韓国の法制度概観」『社会言語学』18号、97-112

あべ・やすし 近刊 「ことばのバリアフリーからみたピクトグラムと〈やさしい日本語〉」庵功雄ほか編『〈やさしい日本語〉と多文化共生』ココ出版

庵功雄(いおり・いさお) 2016 『やさしい日本語』岩波新書

打浪文子(うちなみ・あやこ) 2018 『知的障害のある人たちと「ことば」―「わかりやすさ」と情報保障・合理的配慮』生活書院

小笠原理恵(おがさわら・りえ) 2019 『多文化共生の医療社会学―中国帰国者の語りから考える日本のマイノリティ・ヘルス』大阪大学出版会

小田美智子(おだ・みちこ) 2000 「中国帰国者の異文化適応―中高年の日本語教育を中心に」蘭信三(あららぎ・しんぞう)編『「中国帰国者」の生活世界』行路社、87-113

木村護郎(きむら・ごろう)クリストフ 2012 「「言語権」からみた日本の言語問題」砂野幸稔(すなの・ゆきとし)編『多言語主義再考―多言語状況の比較研究』三元社、687-709

角知行(すみ・ともゆき) 2012 『識字神話をよみとく―「識字率99%」の国・日本というイデオロギー』明石書店

角知行 2014 「「Plain English(やさしい英語)」再考―文書平易化運動の観点から」『ことばと文字』4号、130-138

角知行 2016a 「アメリカにおける〈やさしい言語(Plain Language)〉運動―連邦政府のとりくみを中心に」『社会言語学』16号、77-93

角知行 2016b 「イギリスにおける「やさしい英語(Plain English)」運動―その発展の経緯と要因」『天理大学人権問題研究室紀要』19号、1-16

徳田雄人(とくだ・たけひと) 2018 『認知症フレンドリー社会』岩波新書

宮島喬(みやじま・たかし) 2014 『外国人の子どもの教育―就学の現状と教育を受ける権利』東京大学出版会

安田敏朗(やすだ・としあき) 2013 「「やさしい日本語」の批判的検討」庵功雄ほか編『「やさしい日本語」は何を目指すか』ココ出版、321-341


あべ・やすし(ABE Yasusi)

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