現代日本における「識字」のイデオロギーと漢字不可欠論
-漢字文化をよそに100年さきをいく点字-

あべ・やすし

2001年度 山口県立大学 国際文化学部 卒業論文



■要旨(山口県立大学国際文化学部、2002年『平成13年度 山口県立大学国際文化学部 卒業論文要旨集』9ページより原文のまま)


おおくの「にほんじん」は、「にほんごは かんじ ぬきでは かけない」と おもいこんでいる。だから、このような かんじを つかわない ぶんしょうを バカに する ひとが おおい。

そもそも、はなしことばが、かんじ ぬきで なりたっている からには、かきことばでも、かんじの たすけを かりる ひつようは どこにも ない。たしかに、にほんごには、おなじおとの かんじごが たくさん ある。しかし、それは「かんじを みれば わかる」という たいどが うみだした もの である。もし、かんじを つかわないと わかりにくい ばあいが あるなら、そのときは かんじを つかえば いい。なにより、そういった まぎらわしい ことばは、つかわない ほうが もっといい。

おそらく、たくさんの「にほんじん」は かんじを、「ひょうい もじ」だと かんがえている。しかし、かんじを「ひょうい もじ」と よびはじめたのは、ちゅうごくごや、にほんごの ちしきに とぼしい ヨーロッパじん だった。ことばの いみは はなしことばに ゆらいする もので、かんじ そのものに いみが あるの ではない。

また、かんじを まぜた ほうが はやく よめる という かんがえにも かがくてき・こんきょが ない。それは、なれから くる ものに すぎない。

おおくの ひとは、げんごと もじとは、きりはなせない ものだと かんがえている。しかし、だれでも、てんじで かかれた にほんごも、おなじく にほんご である ことは みとめる だろう。

てんじ・しようしゃは、100ねん いじょうに わたって、にほんごを かんじ ぬきで よみかき してきた。しかし、ワープロが ひろく ていちゃく して、めの みえない もうじんたちも、ワープロを つかって かんじで ぶんしょうを かくよう きょうせい され はじめた。そもそも、かのじょら/かれらには、かんじは ひつようの ないもの なのに である。それは、ただ たんに たいはんの にほんじんが、かんじに いぞん している からである。さらに、てんじで よみかき している ひとたちは、かんじの せいで、じょうほうを える けんりを うばわれている。きかいを つかって ぶんしょうを てんじに なおす にも、かんじが ネックに なって、うまく てんじに なおせない。

また、かんじ だらけの ぶんしょうに くるしめられて いる ひとも かず おおい。

こういった げんじつを ふまえて、これからは、かんじを なるべく つかわない ように こころがけ なくては ならない。そして、かんじが にがてな ひとには、「かんじを つかわない じゆう」を みとめる べきだ。もし、かんじを つかわない ぶんしょうは「よむきが おきない」といって、かながきの ぶんしょうを はねのけるなら、マイノリティだけが そんを すること になる。にほんごを、だれにでも ひらかれた、いきいき とした ことばに して いかなくては ならない。



■もくじ(卒論の本文より原文のまま)

0.はじめに

1.まやかしとしての漢字不可欠論

1.1.「漢字=表意文字」という神話

1.1.1.「表意文字」の定義

1.1.2.表意文字説の起源

1.1.3.表意文字という用語の問題点

1.1.4.脳は漢字をどう処理しているのか

1.1.5.漢字まじり文は、ローマ字文/かながき文より絶対にはやくよめるのか

1.2.「日本語=漢字かなまじり文」という誤解

1.2.1.日本語への一般的な誤解

1.2.2.言語と表記の関係

1.2.3.大衆は なぜ、漢字かなまじり文にしがみつくのか

1.2.4.言語学者の責任

1.3.すずき・たかお(鈴木孝夫)の漢字不可欠論のもつイデオロギー

1.3.1.「漢字はわかりやすい」?

1.3.2.学術用語の問題

1.3.3.日本語には同音異義語がたくさんあっても「しかたがない」のか

1.3.4.漢字音には、日本語のかぎられた発音しか つかわれていない

1.3.5.差別的な「日本語=テレビ型言語」論

1.4.漢字をありがたがるのは、もうやめよう

1.4.1.漢字の「カセット効果」

1.4.2.よくはわからないがゆえの翻訳語/漢字語の「かっこよさ」

1.4.3.誤解をうんだ翻訳語――「血税」

1.4.4.漢字の威信

1.4.5.漢字の「みためのりっぱさ」

1.4.6.こけおどしとしての漢字の権威

1.4.7.「はなしことばのそこぢから」

2.盲人の文字生活を抑圧/妨害する漢字

2.1.漢字をつかわない点字文

2.1.1.点字文のしくみ

2.1.2.つくられた「点字問題」

2.1.2.1.わかちがきをめぐって

2.1.2.1.1.韓国人による漢字かなまじり文のわかちがき

2.1.2.1.2.なれの問題としてのわかちがきへの違和感

2.1.3.同音異義語をめぐって

2.2.点字使用者の“ための”漢字表記法

2.2.1.点字による漢字表記

2.2.1.1.はせがわ・さだお(長谷川貞夫)による「六点漢字」

2.2.1.2.かわかみ・たいいち(川上泰一)による「漢点字」

2.2.2.音声ワープロによる漢字表記法

2.3.同化主義としての漢字絶対主義

2.4.漢字がうみだす情報障害

2.4.1.情報障害をおしつけられる盲人

2.4.1.1.電子情報の必要性

2.4.1.2.自動点訳/機械よみとりの精度をさげる漢字

3.日本において「識字」とはなにか/マイノリティにとっての識字とはなにか

3.1.日本において「識字」とはなにか

3.1.1.よみかきできて「あたりまえ」という日常意識

3.1.2.どの程度よみかきができれば「問題ない」のか

3.1.3.エリートのためのシステム――必然的な「おちこぼれ」

3.1.4.人間を序列化するシステム

3.2.「同化イデオロギー/単一民族神話」と せなかあわせにある「識字イデオロギー/識字率100%の神話」

3.2.1.日本社会における同化イデオロギー

3.2.2.識字率99%という神話

3.2.3.「識字率」とはなにか

3.3.社会的につくられた「識字問題」――インペイされた「さまざまな識字」

3.3.1.非識字者

3.3.1.1.差別によって「文字をうばわれた」非識字者

3.3.1.2.文字をうばいかえすとは、どういうことか

3.3.1.3.「識字の意義」とはなにか

3.3.1.4.識字運動の参加者がせおう負担

3.3.1.5.こえの文化を抑圧する文字の文化

3.3.1.6.なんのための識字教育か

3.3.1.7.よみかきできなくても差別されない社会へ

3.3.1.8.識字運動がめざすべきこと――「われわれの問題」としての漢字

3.3.2.弱視者

3.3.2.1.弱視者にとっての文字――拡大文字と点字

3.3.2.2.弱視者にとっての漢字

3.3.3.ディスレクシア(よみかきしょうがい)の特性をもつひと

3.3.3.1.ほったらかしにされるディスレクシアの特性をもつ生徒

3.3.3.2ディスレクシアと漢字のかかわり

3.3.4.ろう者にとっての日本語のよみかき

3.3.4.1.ろう者にとって「リテラシー」とはなにか

3.3.4.2.ろう者にどうやって よみかきをおしえるべきなのか

3.3.4.3.ろう者の言語としての「日本手話」

3.3.4.4.日本手話をまなぼうとする ろう者のきこえるおやたち

3.3.4.5.ろう者と漢字

3.3.5.外国人

3.3.5.1.日本にきた外国人は、日本語をまなぶのが「あたりまえ」なのか

3.3.5.2.外国人にとっての日本語のかきことば

3.4.単一的な識字観をこえて

3.4.1.識字の多様性

3.4.2.「教育=よみかき教育」という教育観をかんがえなおすために

4.漢字だらけの社会をどうやって かえていくか

4.1. 現実的な提案とはなにか

4.1.1点字を基準にしたシステムを――うめさお・ただお(梅棹忠夫)の提案

4.1.2.漢字を補助としてつかうシステム

4.1.3.漢字をつかわない自由を

4.1.4.日本語のかきことばを開放しよう――ましこ・ひでのりの提案

4.1.5.個別のニーズにこたえるという姿勢――盲界からまなぶべきこと

4.2.最低限すべきこと

4.2.1.固有名詞は「ひらがな」で/漢字はカッコのなかに

4.2.2.わかちがきをとりいれよう

4.3.研究者の社会的責任

4.4.あたらしい世代のために

《注》

感謝のことば

引用文献


(2005年 2月26日掲載)


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