本報告では、情報保障に必要なことをユニバーサルデザインの視点から整理する(1)。情報保障という理念は、おもに障害者の権利保障の文脈で提唱されてきたものである。この情報保障という理念を多言語サービスや言語権という理念と接続することで、さらに幅のひろいものにしていくことができる。
ユニバーサルデザインは、だれもが使用しやすいデザインをつくることをめざす。しかし、情報弱者の生活という視点にたったとき、デザインの改善だけでは不十分であることがわかる。そこで、通訳や介助者などの人的支援が必要になる。情報保障は、五感をうまく活用し、さまざまなかたちで情報を提供する必要がある。また、地域の格差を解消するためには、図書館のようにどの地域にも存在する公共施設のネットワークやノウハウを活用することも必要である。
ユニバーサルデザインは「みんなのため」のものである。だれもが生活しやすい社会をつくるためのものである。たとえば、わかりやすい表現は、日本語学習者(「外国人」や帰国者、ろう者など)、知的障害者、自閉症者、こどもや高齢者など、たくさんのひとたちが必要としている。法律のことばや病院のことばをわかりやすくする。それもユニバーサルデザインである。
川内美彦(かわうち・よしひこ)が指摘するとおり、ユニバーサルデザインを提唱したのはアメリカの「建築家であり製品デザイナー」のロン・メイスである(かわうち2006:97)。川内は、ロン・メイスが提唱した「可能な限り最大限に使いやすい製品や環境のデザイン」(同上:98)という視点をつぎのように説明している。
UD[ユニバーサルデザインのこと―引用者注]はこれまで省みられることのなかったニーズをも取り込んで、よりよいものづくりを行なっていこうとする考え方だが、一方で、すべての人に使いやすいなんて理想論であって現実にはありえないという批判もある。人のニーズは非常に多様だからこの批判は正しいといえるが、UDは「すべての人に使いやすい」が不可能なことであることをよく承知しているので、それゆえ定義の中に「可能な限り最大限に」と述べているのである。
「すべての人に」はゴールとして掲げるとしても、そこには行き着けないことはわかっている。しかし行き着けないとしてもできるだけそのゴールを目指していくことは重要なことであり、その姿勢を「可能な限り最大限に」と言っているのである(同上:101)。
当然のことながら、人間やニーズの多様性に「一つのやりかたで解決する」のは不可能である(107ページ)。そのためユニバーサルデザインは、「よりよいデザイン」の「よりたくさんのデザイン」をめざす必要がある。
通訳や介護の必要性をみてもわかるように、いくら社会のシステムを改善してもすべての困難や障害を解消できるわけではない。人的支援が不可欠である。
ここで、ユニバーサルデザインをおぎなう「ユニバーサルサービス」という視点に注目したい。井上滋樹(いのうえ・しげき)は『ユニバーサルサービス』という本でつぎのようにまとめている。
ユニバーサルデザイン(UD)は、多くの自治体や企業で進められているが、建築物や商品などのハードの部分でないソフトの部分、すなわち「ユニバーサルサービス」を同時にすすめていく必要がある。
ユニバーサル(Universal)とは、「普遍的な」、「万人共通の」、「あるいは一般のために」といった意味だ。子どもからお年寄り、病を患っている人、障害のある人など、年齢や性別、障害の有無にかかわらず、あらゆる人の立場に立って、公平な情報とサービスを提供するのがユニバーサルサービスである。つまりユニバーサルデザインのハード面だけでない、コミュニケーションや人的サポートなどのソフトの部分を担うのがユニバーサルサービスといえる(いのうえ2004:17)。
たとえば、社会生活に必要となる情報を、個々人のおかれた条件に関係なく、だれでも利用できるようにサービスすることを「情報のユニバーサルサービス」とよぶことができる。情報のユニバーサルサービスを実施している公共機関のひとつに公共図書館がある(やまうち2008、あべ2010)。
身体障害者の生活を例にあげるなら、段差をなくしたり、スロープをつけたり、エレベーターを設置したり、ノンステップバスを導入したりして、移動の自由を保障するのがユニバーサルデザインである。そして、日々の生活をささえる介助者を派遣することを「ユニバーサルサービス」ということができる。物理的な改善と人的な支援の両方が必要である。
なにかのデザインを改善するとき、利用者(使用者)である当事者と支援者の両方の意見を参考にすることができる。支援者を補助するデザインも必要である。
「情報」は、「五感」によってつぎのように整理することができる。
きこえるひとには「声をかける」。きこえないひと、きこえにくいひと、声が苦手なひとには「肩たたき」や「手くばせ」をする。それぞれ、声は聴覚、肩たたきは触覚、手くばせは視覚をつかっている。そのひとに必要な対応、そのひとに適したコミュニケーションがある。だがこの社会では、そのひとに必要な対応をしないことがほとんどである。そのため情報弱者がうみだされる。
言語形態には、音声言語と手話言語がある。それぞれにことなる言語体系をもった個別言語がある。たとえば日本語と日本手話は、言語形態と言語体系がことなる言語である。日本語は、視覚、聴覚、触覚にむけて表現することができる。一方、日本手話は視覚と触覚にむけて表現することができる。それぞれ、以下のように整理できる。
さらに、人間によるものと機械などによるものに区別できる。肉筆と活字、点筆による点字と機械や点字タイプによる点字、人間の声と合成音声、触手話とロボット手話のようにである。
弱視者は、活字による拡大図書や肉筆による拡大写本をよんだり、拡大読書器やルーペをつかったり、あるいは録音図書や「よみあげソフト」を利用している。それらを場面ごとに選択したり、そのひとの視力や状況、習慣によって選択したりしている。
音声で本をよむひとは、自然さや正確さをもとめて音訳をえらぶひともいれば、情報のはやさをもとめるため「よみあげソフト」の合成音声でいいというひともいる。「感情がこもっていないから合成音声がいい」ということもある。
情報を、最初から五感をとわないかたちで発信することはあまりない。そのため、五感のひとつで発信した情報は、ほかの五感に変換することが必要になる。それを「感覚モダリティの変換」という(あべ2010:288-289)。田中邦夫(たなか・くにお)はつぎのように説明している。
…障害者が情報を獲得するにあたっては、聴覚障害者ならば音声情報を文字情報ないし手話、視覚障害者であれば文字情報や映像情報を点字とか音声というように、感覚モダリティの変換によって獲得することが多い(たなか2004:100)。
感覚モダリティの変換という視点にたつと、情報を「可変的」と「固定的」のふたつに分類できる。おおくの情報はタイムラグ(時差)なく変換することはできない。だが、テキストデータはタイムラグなく変換することができる。ここで「テキストデータ」とは、音声言語の、電子化された、画像ではない、文字情報のことである。
テキストデータの文章は、たとえば自動翻訳をしたり、音声ブラウザでよみあげたり、漢字にふりがなをふったりすることができる。もちろん精度には限界がある。そのため、自動に変換できるからといって機械まかせにするのではなく、専門職などがきちんとチェックし修正する作業が必要である。技術だけに依存するべきではない。
公共図書館は情報保障の中核といえるような機能をもっている。現状での問題は、それが社会的に認知されておらず、その機能をはたすだけの資源(財源)が不足しているということだ。
公共図書館を情報保障の中核と位置づけることができるのは、議論と実践の蓄積があるからである。山内薫(やまうち・かおる)は「公立図書館と情報保障」という論考で、つぎのように主張している。
…情報の摂取と発信に困難を覚えている人は相当数存在し、そうした人々の読み書きの支援は社会にとっても大きな課題としなければならないだろう。こうした課題の解決を現実のものとしてゆくには、公的に設置された公立図書館こそ最もふさわしい施設であると思われる。もちろん電機製品のパンフレットを初めとして、社会に向けて刊行される出版物やパンフレット等すべての文書・印刷物そして時刻表などの公的な標示物は墨字版と同時に点字版や音声版、拡大文字版、かなもじ版、やさしく書かれた読みやすい版、日本手話による映像版などが作成されなければならないし、発行元が責任を持ってどんな人でも読める形にすべきではあるが、それを待っていては情報格差がどんどん拡大してしまうだろう。また拡大文字版のように単に大きくすれば見やすいという訳ではなく、個々の人の最も見やすい形態で大きくする必要のあるものもあり、きめの細かい対応が求められる。こうした情報提供のノウハウを公立図書館は現在まで少しずつ身につけてきたのである。2010年の著作権法の改正(5)は、学校図書館から大学・高専図書館、公立図書館まで、資料利用に障害のある全ての人が、生涯を通じて読み、知り、学ぶ社会的な体制を確立した点で画期的であり、それぞれの図書館は読むことや学ぶことに障害のある子どもから高齢者にいたるまで、全ての人に対して、その人が読める形で資料を提供する義務を負ったといってもよいだろう。さらに、そうした情報の受け手への情報保障は、知る権利と表現の自由が表裏一体のものであるのと同様、それらの人の情報発信の援助も不可欠のサービスとして取り組まれなければならないだろう(やまうち2011:44)。
このように山内は多様な情報形態を平等に保障すること、そのノウハウが公立図書館にあり、そのための法律も整備されたこと、そして情報発信の権利を保障することも不可欠のサービスであることを指摘している。
公共図書館は、障害者サービスや多文化サービスという課題をかかげている。それは公共図書館が「地域のすべてのひとが図書館を利用できるようにすること」を目標にしているからである。
小林卓(こばやし・たく)は、図書館の多文化サービスをつぎのように定義している。
図書館の多文化サービスとは、奉仕地域・対象者の文化的多様性を反映させた図書館サービスの総称である。その主たる対象としては、民族的、言語的、文化的少数者(マイノリティ住民)がまず第一義的にあげられるが、同時にその地域のマジョリティを含むすべての住民が、相互に民族的、言語的、文化的相違を理解しあうための資料、情報の提供もその範囲に含む、奥行きと広がりをもつサービス概念である(こばやし2007:188)。
公共図書館は、多言語に対応したシステムやユニバーサルデザインによる情報機器を必要としている。日本の図書館の多文化サービスは、まだまだ発展途上にある。しかし、多言語や多文化に関連するNPOや公共施設が連携することで、さらなる発展が期待できる。図書館は、日本全国に存在し、相互のネットワークがある。情報保障を一部の先進的な自治体だけで保障される権利にしてしまうのではなく、どの地域にいても平等に保障される権利にしていくためにも、図書館や郵便局のような公共施設との連携をすすめていく必要がある。
さいごに、具体的な問いをたてることの重要性を指摘しておきたい。とくにユニバーサルデザインを論じるさいは、「だれでも」「みんなに」などと抽象的にせまるのではなく、具体的に問いを設定することが必要ではないだろうか。重要なのは、「みんな」の中身だからである。
そこで、みなさんに質問します。
「文字がよめなくても(6)バスにのれるようにするには、どうしたらいいですか。」
「だれでも(7)参加できるじゃんけんを考えてください。」
ひとつの正解はない。複数の対策が必要である。試行錯誤をつづけていくしかない。
(1) 本稿は、あべ(2010、2011b)をもとに作成した。
(2) 墨字(すみじ)は、点字との対義語であり、めでみる文字のこと。
(3) 言語ではなく、絵をつかって表現したもの。異言語話者や知的障害者にも通じる可能性がある。
(4) 触手話と指点字は、盲ろう者が使用するもの。
(5) 2010年1月の著作権法改正により、公共図書館は読書になんらかの困難があるひとに録音図書などを提供できるようになった。ただし、そのための利用登録が必要であり、サービスの対象者は個々の図書館によってちがいがある。
(6) みえないひと、みえにくいひとの場合、非識字者の場合、異言語話者の場合、ろう者の場合、知的障害者の場合などを想定してほしい。
(7) グーやチョキの指ができないひともいる。動作がゆっくりのひともいる。みえないひと、みえにくいひと、きこえないひと、きこえないひともいる。ルールが理解できないひともいる。言語がちがうひともいる。
あべ やすし 2010 「識字のユニバーサルデザイン」かどや/あべ編『識字の社会言語学』生活書院、284-342
あべ やすし 2011a 「日本語表記の再検討―情報アクセス権/ユニバーサルデザインの視点から」『社会言語学』別冊1号、97-116
あべ やすし 2011b 「情報保障の論点整理―「いのちをまもる」という視点から」『社会言語学』11号、1-26
井上滋樹(いのうえ・しげき) 2004 『ユニバーサルサービス』岩波書店
かどや ひでのり/あべ やすし編 2010 『識字の社会言語学』生活書院
川内美彦(かわうち・よしひこ) 2006 「ユニバーサルデザインについて」村田純一(むらた・じゅんいち)編『共生のための技術哲学―「ユニバーサルデザイン」という思想』未来社、96-109
小林卓(こばやし・たく) 2007 「図書館における多文化サービス」矢野泉(やの・いずみ)編『多文化共生と生涯学習』明石書店、187-217
田中邦夫(たなか・くにお) 2004 「情報保障」『社会政策研究』4号、93-118
成松一郎(なりまつ・いちろう) 2009 『五感の力でバリアをこえる―わかりやすさ・ここちよさの追求』大日本図書
藤田康文(ふじた・やすふみ) 2008 『もっと伝えたい―コミュニケーションの種をまく』大日本図書
ましこ・ひでのり編 2006 『ことば/権力/差別―言語権からみた情報弱者の解放』三元社
山内薫(やまうち・かおる) 2008 『本と人をつなぐ図書館員―障害のある人、赤ちゃんから高齢者まで』読書工房
山内薫(やまうち・かおる) 2011 「公立図書館と情報保障」『社会言語学』別冊1号、21-44
ユニバーサルデザイン研究会編 2008 『人間工学とユニバーサルデザイン』日本工業出版
※この文章は、2011年10月22日に、シンポジウム「異文化現場のコミュニケーションをつなぐ」パネルディスカッション「ユーザと開発者間に必要なコミュニケーションとは?」多文化共生センターきょうと(第2回 文化とコンピューティング2011協催イベント)で発表した原稿です。
(2012年 3月26日 掲載)
あべ・やすし (ABE Yasusi)
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