ヒューライツ大阪 第12回 じんけんカタリバ(2023年9月25日)
あべ・やすし(日本自立生活センター自立支援事業所常勤介助者)
ことばと差別については、豊富な議論があり、テーマがある。そのなかでも今回はカタカナのつかいかたについて議論してみたい。何気ないことばの風景にたちどまってみよう。
まず、ことばについて体系的に整理してみる。
世界の言語には
・音声言語
・手話言語
の2種類がある(きくさわ/よしおか編2023、あべ近刊)。日本語は音声言語のひとつである。音声言語には文字のある言語もあれば、文字のない言語もある。
日本語の文字体系には
・墨字=すみじ(視覚にうったえる文字)
・点字(触覚と視覚にうったえる文字)
の2種類がある(あべ近刊)。
墨字の日本語では漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字などが使用される。わかちがきはしないのが一般的である。点字の日本語では、漢字を使用せず、かなとローマ字を使用する。ひらがなとカタカナを区別しない。漢字を使用しない。わかちがきする。かなづかいが墨字よりも表音的である(長音や助詞)。
つまり、今回のテーマは「墨字の漢字まじり文におけるカタカナの用法について」ということになる。なお、カタカナ表記にする理由として、ことばをうきださせるという目的もあるだろう。わかちがきをしない墨字の日本語表記では、漢字とひらがなを基本に文章がつくられる。そのなかでカタカナをいれる(漢語や和語をカタカナにする)ことで、キーワードや強調したい単語をうかびあがらせるようにすることもある。
このような整理をふまえずに日本語の文字について議論することがほとんどであるため、文字ナショナリズムにおちいりやすい。逆にいえば、ものごとを相対的にとらえるために、うえのように「ことばのかたち」を整理する必要がある。
文字ナショナリズムの典型例として、たとえば網野善彦(あみの・よしひこ)の議論がある。網野は『日本論の視座―列島の社会と国家』で「日本の文字社会の特異性」として、つぎのように主張していた。
まず最初に、いまさらいうまでもないことのように思われるが、われわれが三種の文字――漢字・平仮名・片仮名を持ち、それをさまざまなかたちで使い分けていることに、注意しておかなくてはならない。この三種の文字とその組合せによって、日本人はじつに七種類もの文字表現を持つことになるのであり、しかも、こうした文字を組み合せることによって、みごとな効果をあげている文学作品の存在によっても知られるように、それぞれの文字表現を通して、長年にわたって日本人はさまざまな心意を細かく書き表してきたのである。
これほど多様な文字表現を持つ民族は、世界を見渡してみても、まずないといってよいのではなかろうか。この特異性がいかにして形成されてきたのかは、日本の文化を考えるさいの根本的な問題であろうが、私自身はこのことをこれまでまったく自覚していなかったのであり、かなり多くの日本人も同様なのではないかと思われる(あみの1990:320)。
網野は、つづけて「日本の社会における識字率の著しい高さをあげなくてはなるまい」と主張している(同上)。このような認識の問題については、「均質な文字社会という神話―識字率から読書権へ」という文章で批判したことがある(あべ2006=2010)。
網野には「漢字、ひらがな、カタカナを駆使する「われわれ」」という認識がある。それを当然のようにとらえて、例外をみとめずに「日本人」を論じている。非常に排他的な議論である。非識字者や点字使用者の存在は無視してしまうのである。
そしてこのような文字ナショナリズムがさらに強化されると、今度は少数者や他者をあからさまに差別するようになる。
点字(使用者)を侮蔑するような言論や漢字をほとんど使用しなくなった朝鮮語(話者)について侮蔑するような言論がある。墨字の日本語で漢字を使用せずに文章を書いた場合にも、侮蔑的な態度をむけられることがある。自文化中心主義(エスノセントリズム)の問題である。
墨字の日本語では、漢字、ひらがな、カタカナをつかいわけて文章をかくなかで、一般的には漢字やひらがなで表記する単語をなんとなくの気分でカタカナで表記することがある。墨字の日本語には厳密な意味での正書法がなく、自由度がおおきい(たとえば、空き缶という語はさまざまに表記されている)。「文字遊び」のようなカタカナ表記で日本語学習者が困惑することもある。
正書法とは、書きことばの規範である。墨字の日本語は、その点でかなり自由であり、規範がゆるいともいえる。しかし、その分、同一語が何種類にも表記されることになり、文字の学習や検索などの面で不都合が生じている。いきすぎた規範主義は書きことばのハードルをあげてしまうが、墨字の日本語の場合は、また別のハードルをつくっている。文字表記はある程度は固定的であるほうが伝達しやすい。文字遊びのような非標準的なカタカナ表記について、ふりかえってみる必要があるだろう。
一方で、それでは「標準的なカタカナ表記」とはどのようなものなのか。その傾向や性質に問題はないだろうか。その点についても、たちどまってみる必要があるだろう。
墨字の日本語は「日本のもの」を漢字やひらがなで表記し、「異文化のもの」をカタカナで表記する。
つまり、
・外来語をカタカナで表記する(※外来語ではなくても国際的に知られた日本文化や固有名詞をカタカナ表記することもある)
・外国や異民族の地名や人名そのほか多様な固有名詞をカタカナで表記する
という用法がある。
このカタカナ表記は、あたりまえではなく、ゆらぎがある。
たとえば、
・にしゃんたさん
・一部の在日朝鮮人(ひらがな表記/漢字表記にひらがなでふりがなをふる)
のように、自分の名前をカタカナ表記しないひともいる。
外国にルーツのある日本語話者がふえればふえるほど、名前のカタカナ表記に違和感をもつひとがふえるかもしれない。
言語の名前についても、カタカナを使用したり使用しないことがある。 日本の少数言語として、アイヌ語、琉球諸語、日本手話がある。このうち、琉球諸語については呼称がたくさんある。漢字を使用しない呼称もあり、ひらがな表記とカタカナ表記の両方がある。 たとえば、
・うちなあぐち/うちなーぐち/ウチナーグチ
・しまくとぅば/シマクトゥバ
の2つがある。
2006年に沖縄県は「しまくとぅばの日に関する条例」を制定した(9月18日)。ここでは、ひらがな表記が採用されている。一方で、ケセン語(岩手県気仙地方の地域語)のように、意識的にカタカナ表記をえらぶ場合もある。
つまり、つぎのような論点がある。
・内在的なもの(文化)を異物あつかいしていいのか
・外来のものだといって異物あつかいしていいのか
(※そもそも内在と外来は明確に線引きできるのか、ゆらぎがあるのではないかという論点もある)
カタカナ表記することが「過剰に異物あつかいすること」だと認識されるようになれば、カタカナ表記には慎重になるだろう。「じっさいちがうのだから」という現実主義的な意味でカタカナ表記にすることもあるだろう。
ともかく、異文化をカタカナ表記することは墨字の日本語表記では根強く定着している。
「大多数がそのように表記しているから、そのように表記する」。そのような態度は、ことばの安定性という意味ではプラスに評価できる。とはいえ、議論の余地もなく問答無用で表記を固定する抑圧性という意味ではマイナスに評価できる。
それは言語文化の性質でもある。言語は、異議申し立てによって変化することもある。変化することも言語の性質、言語文化の一部である。
まずは自己決定権を尊重することが重要だといえる。その意味で、日本語を第一言語としないひとが発した日本語をわざとカタカナで表記することは一方的であり、差別行為であるといえる。ちがいを強調し、その「つたなさ」を文字化するものだからである。
最後にカタカナによる記号化についてとりあげる。記号化とは、そのもの自体をとらえるのではなく、そのものに「はりつけた」ラベル、イメージ、フィルターをとおして「それ」をとらえるということである。
地名や日付などに特別な意味をもたせようとすることがある。「9.11」といえば、その意味する内容は2001年9月11日にアメリカ合衆国でおきた重大事件として多くのひとに理解される。
2022年のハロウィンの時期に韓国のイテウォンでおきた雑踏事故について、当初韓国では「イテウォン惨事」と表現されていた。地名にスティグマをはりつけることに問題提起がなされ、韓国のマスメディアは「10.29惨事」という用語を使用するようになった。このように、ものごとを記号化することについて、あるいはどのように記号化するのかについて議論になることがある。
国際的にも知られているからといって、ヒロシマ・ナガサキとかミナマタというふうにカタカナ表記することがある(※ただ「知られている」のではなく記号化されていることに注意)。
その用法にならって、フクシマとカタカナ表記することもある。この場合のフクシマは記号化されたものであり、ただの福島県や福島市のことではない。原子力発電所の爆発により被害をうけた、その後を象徴するフクシマである。このカタカナ表記について議論があった。差別だ、差別ではないという応酬があった。ここでの問題は、カタカナ表記の是非というよりは、カタカナ表記する対象である福島をどのようにとらえているのかということである。フクシマというカタカナ表記を批判した論者は、福島へのまなざしに差別を感じとったのだろう。つまり、問題はどのように記号化されているかということである。まなざしがラベルをつくり、ラベルによってまなざしがつくられる。
注意すべきなのは、ふと思いだしたときにだけその地域についてことばにするひとと、その地域で生活しているひととの間には、明確なちがいがあるということだ。自分が暮らしている地域をいつまでも記号化するひとはいない。「よそ者」(非当事者)だからこそ、安易に記号化している側面があるのではないか。
墨字の日本語には漢字、ひらがな、カタカナがあり、ローマ字がある。その書きかた(くみあわせかた)は比較的自由で、気分によって、あるいは問題意識によって、非標準的な表記をえらぶことがある。その際に使用されやすいのがカタカナである。異化するため、ちがいを強調するためにカタカナをえらぶこともある。
そのような日本語の文字に、さまざまなひとが、つきあっている。第二言語、第三言語として日本語を学んでいるひともいる。パソコンをつかって墨字の日本語を入力している点字使用者もいる。
そのような現実をふまえて、そしてカタカナには異化するとか記号化するという用法があることをふまえたうえで、ことばの風景を、あらためて、ふりかえってみるのはどうだろうか。
正解はない。だれかが良し悪しを決定してくれることでもない。みんなで議論するしかない。
異化しようとする、記号化しようとする主体が対象をカテゴリー化し、「われわれ」をたちあげる。そのようにつくられた「われわれ」が同じ言語を共有し結束する。そうして、他者を異物としてあつかい、カタカナ表記する。ぐるぐると、まわっている。そのようにして、ことばの風景がつくられている。ことばのなかに差別がある。
あべ・やすし 2002=2012 「漢字という障害」ましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別 新装版─言語権からみた情報弱者の解放』三元社、131-163
あべ・やすし 2006=2010 「均質な文字社会という神話─識字率から読書権へ」かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会言語学』生活書院、83-113
あべ・やすし 2018 「ことばのバリアフリーと〈やさしい日本語〉」『学習院女子大学主催シンポジウム〈やさしい日本語〉と多文化共生 予稿集』103-108
(http://hituzinosanpo.sakura.ne.jp/abe2018a.html)
あべ・やすし 近刊 『増補新版 ことばのバリアフリー―情報保障とコミュニケーションの障害学』生活書院
網野善彦(あみの・よしひこ) 1990=2004 『日本論の視座―列島の社会と国家』小学館
李宰錫(イ・ジェソク) 2022 『カタカナ表記の〈機能〉に関する一考察』大阪大学博士論文
今野真二(いまの・しんじ) 2013 『正書法のない日本語』岩波書店
菊澤律子(きくさわ・りつこ)/吉岡乾(よしおか・のぼる)編 2023 『しゃべるヒト―ことばの不思議を科学する』文理閣
金水敏(きんすい・さとし) 2023a 『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店
金水敏(きんすい・さとし) 2023b 『コレモ日本語アルカ? 異人のことばが生まれるとき』岩波書店
佐藤裕(さとう・ゆたか) 2018 『新版 差別論―偏見理論批判』明石書店
J.A.T.D.にしゃんた 2002 『留学生が愛した国・日本』現代書館
林智裕(はやし・ともひろ) 2022 『「正しさ」の商人―情報災害を広める風評加害者は誰か』徳間書店
増地ひとみ(ますじ・ひとみ) 2017 「日本語教育で《非標準的なカタカナ表記》と《文字種選択の仕組み》を扱う意義」日本語/日本語教育研究会編『日本語/日本語教育研究』ココ出版、123-138
依田恵美(よだ・めぐみ) 2011 「役割語としての片言日本語―西洋人キャラクタを中心に」金水敏編『役割語研究の展開』くろしお出版、213-248
当日のまとめがヒューライツ大阪のウェブサイトに掲載されています。
当日は、うえにあげた文献の一節を2つよみあげました。ひとつめは、にしゃんたさんの本のつぎの一節です。
日本に来たころ、日本人のような漢字の名前がほしかった僕は、「西安太」と当て字を使っていた。それから12年たち、今のひらがなの名前を通称名として登録した。なぜなら日本人は、漢字を使わない国の人の名前を当然のようにカタカナで表すからだ。それに、悪気はないとはいえ、「外人」を一くくりにするある種の差別を感じてならないからである(にしゃんた2002:154)。
このような意見があることをまずはうけとめる必要があるのだとおもいます。参加者の意見として、カタカナだからこそ表現できる発音がある、その意味でカタカナ表記はあゆみよっているといえるということでした。これまで外来語を日本語にとりいれるなかで、「ティ」とか「ファ」など、現代日本語としては「あたらしい発音」がとりこまれてきた歴史があります。ただ、現在ではデジタルフォントとしては、カタカナで表記できるものは、ひらがなでも表記できるので、カタカナでなければ表記できない音はないだろうと返答しました。終了後に、環境依存文字ではカタカナでしか表記できないものがあるとの意見をほかの参加者に指摘されました。墨字の日本語におけるカタカナの位置は、異化や記号化だけではないといえそうです。
もうひとつ引用してよみあげたのは、つぎの一節です。
「アナタハ、カミヲ、シンジマースカ?」(よだ2011:213)
アニメやお笑い番組などで、「西洋人」のキャラクタがうえのようなセリフをいうとき、どんなふうに発音されるか、そのアクセントというかイントネーションの「かたち」が多くの日本語話者のあいだで共有されていること、それは、それだけのつみかさねがあるからこそだと指摘しました。
つみかさねが、ことばをつくり、ことばの風景をつくっています。そして、その風景は、すこしずつ変化しています。さまざまな立場や問題意識があるなかで、どんなふうに変化させたいのか、議論することもできるし、必要だろうとおもいます。
ことばをどのように表記するのがいいのか。正解はありません。なぜなら、墨字の日本語は漢字、ひらがな、カタカナを中心として、それらをくみあわせて表記されるからです。正解がないのは、自由であることの結果なのです。ひらがなとカタカナ、どちらか1種類だけを使用することにすれば、正解はつくれます。それを墨字の日本語を使用する人たちが希望するかどうかの問題です。
今回の内容は、わたしも論じたことのないテーマでしたので、たいへん貴重な機会になりました。大阪の教育現場のとりくみ(外国出身の児童生徒の名前を母語の発音でカタカナ表記する)など、べんきょうになりました。参加者のみなさま、主催者のみなさまに感謝します。
あべ・やすし(ABE Yasusi)
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