「民族教育を平等に」

あべ やすし



 日本で「民族教育」というとき、そこでイメージされているのは、「日本の学校教育」以外のものだ。民族教育というのは「外国人」が「外国人学校」でやるものという意識が定着している。

 日本語で「何ヵ国語はなせるんですか?」と質問されることがある。こたえにくい質問だ。アイヌ語は「国語」にカウントされるのか。日本手話もカウントしていいのか。もちろんそれは、うがった問いであり「何ヵ国語はなせるんですか」というのは「いくつことばが話せるんですか?」という意味なのだろう。わたしは以前、中国出身の労働者に漢語(いわゆる中国語)で、「ni hui jiang ji zhong yuyan?(いくつの言語をはなせるの?)」と質問されたことがある。これは、こたえやすい質問だ。「中国には56の民族がいる」と当然のようにかたる地域では、表現がおのずと適切になる。

 日本人は、なにかといえば、「国民」ということばをつかう。そして、その「国民」の内実を「均質なもの」のようにみなしている。「『日本人』は、こういうものだ」という意識は、「『日本人』は、こうあるべきだ」という抑圧的な主義主張になる。日本社会の均質幻想と同化主義は一体のものだ。


【「学校のなか」の問題】

 日本の学校教育は民族教育をしている。その民族とは、たくさんの民族ではなく、均質化された「日本人」のことだ。日本社会全体で、その民族教育をささえている。「日本人」は、学校教育のそとでも「民族的なもの」をじゅうぶんに獲得し、共有し、実践することができる。

 日本で国民という制度にくみこまれていても(日本国籍をもっていても)、「日本人的なもの」におさまりきらないひとたちがいる。それは、当然のことだ。日本国籍をもつひとのなかには、さまざまな出自のひとがいるからだ。

 「外国籍」のひとにも、「日本人的なもの」に回収されない、回収されたくないひとがいる。「郷に入れば郷に従え」という同化主義。「いやならでていけ」という排外主義。このふたつの抑圧が支配的な社会で、「日本人」とはことなる少数派が自分たちの文化を継承し、共有し、生活する。そのために必要になるのは、日本の公教育のそとに民族学校をつくることだけでなく、日本の公教育の内側にも、さまざまな民族教育をつくりだすことだ。その「さまざまな民族教育」の内容は、地域ごとにかわってくるだろう。北海道と沖縄だけでなく、ブラジル人がおおい地域、フィリピン人がおおい学区など、それぞれの地域の特性をふまえた民族教育を、平等に保障する必要がある。

 おおくの朝鮮人は、日本の学校で同化主義と排外主義による差別によって、みえない存在にされてしまっている。いないことにされてしまっている。日本社会が、そのようにしているのだ。通名の使用は個人の「自発的な選択」などではなく、同化主義と排外主義の結果でしかない。日本政府がおこなってきた朝鮮学校への差別政策の歴史をふまえ、それを反省し、朝鮮人の学習権を保障しないといけない。日本政府は、朝鮮学校に政治的に介入しようとするのをやめ、むしろ朝鮮学校が日本社会ではたしてきた役割をうけとめ、日本の学校の教育内容をあらためる必要がある。


【「学校のそと」の問題】

 そして、学校の内側だけでなく、社会全体で「さまざまな民族的なもの」が共存できるようにしないといけない。問題は学校教育にとどまるものではない。学校のなかやそとで身につけたことが地域社会で実践できる。そうでなければ、「さまざまな民族的なもの」への学習意欲を維持するのがむずかしくなってしまう。なにごとであれ、自発的な学習でなければ、とおりいっぺんの「勉強」にしかならない。まなんだことが社会で役だつ、必要になる、そして「必要とされる」。それが実感できればこそ「勉強」以上の学習意欲を維持することができる。

 日本にくらす少数派が「どうせ…」という無力感をいだくことなく、自分たちの文化を継承し、共有し、生活する。そうして、文化をあらたにかたちづくっていく。それは、わたしをふくむ、たくさんの「日本人」があたりまえの権利として、いま現におこなっていることなのだ。それを、みんなの権利にしようということだ。それが「みんなの権利」であるべきなのは、わたしたちが、このかぎりある世界で、わかちあって、たすけあって、いきているからだ。



 この文章は、『月刊 イオ』2010年5月号(特集「差別なき高校無償化を!」)、40-41ページに掲載された記事の本文を転載したものです。


関連リンク

(2013年 6月21日 掲載)


あべ やすし (ABE Yasusi)

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