「文章をよりよみやすくするために」

あべ やすし


※これは、2000年の1月、山口県立大学の2回生のときレポートとして提出したものです。このレポートのつぎに提出したのが、「耳できいてわかる文章のために」です。


わたしは文章をかくとき、和語はかながきにすることを原則としている。それは、「かんがえる」を、「考える」とかくのは不合理なことにおもえるからである。

『レポートの組み立て方』(木下是雄・1994年)の191ページに、「訊かれれば」という記述がある。これが「きかれれば」とよむのは、文脈からすぐに判断できる。

しかし、なぜここで「訊」という字をつかっているのだろうか。「聞く」や、「聴く」では満足できないからであろうか。

たしかに、「聞く」では受身な感じがし、こちらから相手に「きく」という感じはしない。それに、「訊く」という表記もなかったわけでもない。よって木下は厳密な表記をするために「訊」という字をえらんだのだろう。

しかし、こういったかきわけは、わたしには、単に漢字であそんでいるだけにしかみえない。「きく」は「きく」とかけばそれですむはなしである。それを、「聞く」という表記をするから、それにつられて「聴く」や「訊く」という表記がでてくるのである。

中国語(ハンユィ)と日本語はまったく異質な言語である。だからこそ、「聞く」だけでは「きく」を表記するには不十分なのである。端的にいえば、和語を表記するのに、漢字は適していないのである。

しかし、かなのおおい文章がよみにくいのも事実である。これは、わかちがきを採用しないかぎり解決できないとおもう。とはいえ、わかちがきも、和語のかながきも、すぐには定着しないだろうと予想される。

しかしながら、よみにくいところを、部分的にわかちがきにするのは、ゆるされていいのではないか。

『辞書はジョイスフル』(1994年・新潮社)で柳瀬尚紀は、『新明解国語辞典』で一部をわかちがきにしているのを、「日本語の文章としておかしいので、一考をねがいたい。」(71ページ)、「これはいけません、いただけません。」(72ページ)とかいている。

わかちがきを「日本語の文章としておかしい。」というのは、ふるいものはふるいがゆえにただしい、という論理によるものである。あくまで、柳瀬の感覚、感情からいっているにすぎず、わかちがきがいけないというのに、なにか明確な根拠があるわけではない。じっさい、てがきの文章では、わかちがきはめずらしいことではない。

日本語の文章は、漢字・ひらがな・カタカナ・ roomazi などをつかいわける。そのため、目にうったえる効果(ビジュアル性)が非常にたかい。鈴木孝夫はこれをさして、「テレビ型言語」という。この、現行の漢字かなまじり文にわかちがきをとりいれることは、日本語の表記をゆたかにすることはあれ、堕落させることなどないとおもう。

もちろん、 かんがえる よりも 「考える」のほうがよみやすい、という反論もあるだろう。しかし、訓をかきわけて、「とる」を「採る」・「執る」・「摂る」などと表記するのはやめたほうがいいとわたしはいいたいのである。


(2021年 12月4日掲載)


あべ・やすし (ABE Yasusi)

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