日本には民族的マイノリティとして、朝鮮人、おきなわ人、アイヌ人、さまざまな「外国人」が生活している。それでは、多数派の日本人は、「なにじん(何人)」なのだろうか。「日本人」といえばよいのだろうか。
日本国籍人という軸をつくるとしよう。そのなかには、アイヌ人やおきなわ人だけでなく、日本国籍の朝鮮人がふくまれる。「日本国籍をもつひと」という意味での「日本人」と、民族としての「日本人」をおなじく「日本人」と呼称すると、議論が混乱してしまう。そこで、「ヤマト人」や「和人」という名前をあてがうこともできる。しかし、わたしをふくめて、多数派の日本人は「ヤマト人」や「和人」という表現を日常的につかうことは、まったくない。なぜか。
それは、「民族」という視点をかかえこむ必要がないからである。端的にいえば、「多数派には名前がない」ということだ。つまり、民族的な多数派は、民族と国籍というカテゴリーを区別しなくても、とくに問題が生じない、なにも問題はないと認識しているのである。
「民族」であるとか「エスニック」というものは、自分たち以外の、なにか「別の人たち」のはなしであると「おもえてしまう」のである。
石川准(いしかわ・じゅん)は『アイデンティティ・ゲーム』でつぎのように説明している。
エスニック・マジョリティの位置に身を置く者がエスニック・アイデンティティを意識する機会はめったにない。少なくとも、それが自分や社会にとってどのような意味を持っているかをありありと実感することはまずないと言っていい。ところが、エスニック・マイノリティとして生きるのが日常であるような人となると意識は一変する。本名でいくのか通名で暮らすのかの選択、帰化や同化をどう考えるのか、民族差別にどう対処するのか、エスニシティは否応なくアイデンティティの中心に位置する。エスニック・マイノリティとは、エスニシティに無関心ではいられない状況に身を置く人々の別名であり、エスニック・マジョリティとはエスニシティの社会的機能を意識しないで生活できる人々の別名だと言ってもいい(いしかわ1992:20)。
民族的多数派は、自分の民族性(エスニシティ)について意識していない。その一方で、他者に対しては「民族」というまなざしをむける。その結果、無意識のうちにつぎのように表現(呼称)をつかいわけしている。
「にほんじん(日本人)、あいぬみんぞく(アイヌ民族)、つちぞく(ツチ族)」
このようにならべてみると、「じん、みんぞく、ぞく」にはあきらかに序列がある。その序列を設定しているのは、じん(人)=多数派の日本人である。
うえのような序列をなくすのであれば、すべて「じん(人)」とよぶ必要があるだろう。ヤマト人、アイヌ人、ツチ人といったようにだ。そうしなければ、民族を相対的にとらえることはできない。
現在の社会科学では、民族という概念について議論が発展し、民族というカテゴリーは本質的なものではなく、ゆらぐもの、想像されたもの、社会的につくられるものだと認識されている。「民族というのは幻想だ」ともいわれる。
ただ、ここで注意しなければならないことがある。民族というカテゴリーから自由でいられるという、「民族フリー」の「日本人」(多数派)の立場から、「民族は幻想だ」ということは、歴史や社会的背景をふまえないまま、安易な発言をしているのかもしれないということだ。
近代社会は、民族的少数派に制度上の差別をつくり、差別的なまなざしをむけてきた。そのなかで、少数派は自分たちの言語や文化を否定的にとらえるようになり、多数派の文化に同化をせまられてきた。
一方、多数派は近代文明をとりいれる過程で自分たちの文化を欧米化させてきた。しかしそれでも、日常の生活なかで自分たちの言語や文化をまなび、継承し発展させてきた。日本の学校教育は、ヤマト人のための民族教育をしている。ただそれに気づかないだけである。
アイヌの文化権や言語権(文化や言語を継承する権利)をみとめようとしないヤマト人が、つまり、この日本社会の現実が、アイヌが「アイヌでいること」をやめさせたり、あるいは「アイヌであること」をたえず意識させつづける、あるいは、意識させつづけながらも、それをかくそうとさせる。アイデンティティは、そもそも自由であるはずである。それにもかかわらず、アイヌや朝鮮人などの少数派は「アイデンティティのジレンマ」においこまれている。
多数派の親と少数派の親をもつこどもは、さらなるジレンマにおいこまれることがある。「おまえは、どっちだ」というまなざしをむけられ、自分自身もそこで葛藤してしまうからである。しかし、「どちらでもある」のではないか。「どちらも大切」といえるのが重要なのではないか。
平等な関係をきずきあげていけば、どちらかだけを選択することにはならない。片方の言語や文化だけを継承するということにはならない。移民二世の場合も同様である。日本社会で生活していくには日本語が必要である。しかし、親と会話したり、親の家族、コミュニティとつながるためには民族語が必要である。どちらも大切なのだ。
文化の交流がすすみ、さまざまなアイデンティティが交錯する社会では、個々人の生活のなかに複数の文化や言語が共存することになり、複合的なアイデンティティをもつようになる。だれも「一つ」の「なにか」だけにしばられない社会になる。そのような社会を「多文化社会」ということができる。
単一ではなく、複数である。その「複数」は、共存と対立のはざまにある。その状況を、どのようにとらえるのか。
石川准(いしかわ・じゅん) 1992 『アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学』新評論
(2013年 5月6日 掲載)
あべ やすし (ABE Yasusi)
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