「国籍ってなんだろう―日本の入国管理政策の問題」

あべ・やすし



1. はじめに

 国籍とは、なんだろうか。国籍がもつ意味や機能をふだんの生活でどれくらい意識しているだろうか。日本には、日本国籍のひと、外国籍のひと、無国籍のひと、日本政府が国籍と認定していない籍のひと、在留資格のない外国籍のひと(非正規滞在者)がいる。日本国籍のひとは「無国籍」のひとが存在することさえ、しらない場合がある。山本敬三(やまもと・けいぞう)はつぎのようにのべている。

 これほど国際化した世界の中に身を置くことになったわれわれ日本人も、しかしながら、国籍というものについて意識することはあまりないようである。何事につけ、ある事柄をそれとしてとくに意識しないですむということは幸いなことである。しかし、意識することがないからといってその事柄を知らなくてよいということにはならないし、また意識しなければならない状態でありながら、あえてそれを避けて通り、そのために多くの人々が苦悩しているという現実がもしも存在しているとするならば、結果的には、それは社会的不正義に加担していることにならないであろうか。

 国籍は、まさにそのようなものと考えてよいであろう(やまもと1979)。

 わたしの祖父母はアメリカに移住し、戦争がはじまるまえに日本に帰国した。父のきょうだいはアメリカうまれで、そのひとりはアメリカ国籍でサンフランシスコと岡山市をいったりきたりしている。祖父母はアメリカから帰国し、裕福な生活をしていたらしい。父は日本でうまれた。

 わたしがうまれたところは在日朝鮮人の集住地区だった。もっとも、わたしがうまれたころには不可視化され、どの家が朝鮮半島出身であるのか、わからなかった。

 日本でうまれた在日朝鮮人は、「帰化」しなければ日本国籍が取得できない。アメリカでうまれたひとはアメリカ国籍を取得(選択)できる。国籍法が血統主義なのか、出生地主義なのかによって、このようなちがいが生じる。

 ここでは、日本社会における「国籍」の実態を、入国管理政策の歴史を中心にふりかえってみたい。

2. 植民地支配と戸籍による差別

 日本の敗戦まで、朝鮮人と台湾人の植民地出身者は日本国籍だった。なおかつ、朝鮮戸籍と台湾戸籍という日本人の戸籍とは別のわくぐみを設定されていた。これは一体になることを強制しつつ、権利の面ではとおざけるためだった。まず、1945年までの実態をかんたんに確認する。

併合当時の朝鮮人は、保護国だった韓国時代に制定された民籍法にもとづく民籍に編入されており、さらに1922年には総督府の制令として朝鮮戸籍令が公布されたが、いずれも朝鮮のみの法律で内地の戸籍法とは法体系が別であった。すなわち、朝鮮と内地では戸籍の裏付けとなっている法が異なっていたのであり、両者を連絡する規定を設けないでおけば、わざわざ朝鮮人の本籍移動禁止を法文上に記さなくとも、内地―朝鮮での移籍手続きが存在しないことになる。…中略…

 このように、国籍のうえでは強制的に「日本人」に包摂しつつ、戸籍によって「日本人」から排除する体制が出来あがった。この体制は台湾にも反映し、やはり内地の戸籍法を施行しないという手法をとって、台湾人の本籍移動が実質的に禁じられることになる。地域レベルのみならず、個人レベルにおいても、朝鮮と台湾は「日本」であって「日本」でない位置をあたえられたのである(おぐま1998:161)。

3. 敗戦後の管理と排除

 つぎに日本の敗戦後のながれを確認する。

 敗戦を迎えた日本政府は、「国体護持」をなににも優先させて、朝鮮、台湾、沖縄、千島などの保有を断念した。と同時に、戦前・戦中の「内鮮一体」、「一視同仁」、「日鮮同祖」といった多民族帝国的色合いの濃いイデオロギーを即座に捨てた。そして、GHQの対朝鮮人姿勢が明らかになる前に、内地在住の朝鮮人が内地人と同等の権利を獲得しないよう先手にでた。

 女性の参政権を初めて保障した1945年12月の衆議院選挙法改正だが、日本政府はそこに「内地」に限る「戸籍条項」を設け、「外地」籍者の選挙・被選挙権を「当分の間」「停止」すると定めた。皮肉なことに、直前の12月20日付けの内務省の草案は、「内地在住朝鮮人・台湾人に選挙権を与えるための特別処置」が必要であるとしていた。そこには、終戦によって植民地人ではなくなった在住朝鮮人の活発な政治運動を見て、この人たちに参政権を認めればその運動が天皇制廃止にもつながりかねないと恐れた、日本政府の強い危機感があった。…中略…

 帝国憲法の改定作業が始まった1946年2月から4月にかけて、日本政府は在日朝鮮人の権利にさらに巧妙な仕掛けをした。マッカーサーが提示した新憲法草案には、在日朝鮮人に関する二つの条文(第13条と第16条)が含まれていた。第13条には「全ての自然人は、法の前に平等である。人種、…中略…出身国により政治的関係、経済的関係または社会的関係において差別がなされてはならない」、第16条には「外国人は法の平等な保障を受ける」と、それぞれ規定されていた。しかし日本政府は、その「マッカーサー草案」を受けとると、直ちに第16条を削除した。また、第13条の「全ての自然人」を「全ての国民」と書き換えた。この結果、外国人の平等な権利保障が新憲法から消えたのである。

 7月になると、さらに「マッカーサー草案」になかった第10条を挿入した。これは、旧帝国憲法の「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」と同じような文言で「国民」を規定した条文で、その「法律」が、父親が日本人であることを要件とした1950年の国籍法になった。なお、この微妙な法的操作には重大な意味が隠されていた。…中略…新憲法が施行された1947年5月3日の直前になって、在日朝鮮人を「当分の間」「外国人とみなす」とする外国人登録令が制定されたのである(リケット2006:192-193)。

 この「外国人登録令」は、最後の「勅令(ちょくれい)」だった。つまり、天皇の名のもとに命じたということだ。

 在日朝鮮人の参政権をみとめず、「外国人とみなす」という方針をうちだしながら、一方では、1948年1月に「「義務教育」については、日本人同様に日本学校への「就学義務」を負うとの見解が文部省から示された」(たなか2007:19)。ここにも、強制的な包摂と排除の論理がみてとれる。

 「当分の間」「外国人とみなす」とされていた旧植民地出身者は、サンフランシスコ講和条約の発効日から日本国籍をうしなうと宣言された。

 日本が主権を回復した1952年4月28日、旧植民地出身者は「外国人」になったとされる。外国人にしてしまえば、あとは「日本国民」でないことを〈口実〉に、さまざまな差別や排除が正当化される。

 在日コリアンが「日本国籍」を失ったその日に制定されたのが現在の外国人登録法で、初めて「指紋」押捺が導入され、彼(女)らを直撃することになる。…中略…

 同じ時に制定された戦傷病者戦没者遺族等援護法には「国籍条項」が〈再登場〉し、日本の戦争に同じように駆り出されたのに、在日コリアンは国家補償から全く排除された(たなか2007:24)。

 日本では、政治家も市民も、なにかと「国民」という表現をつかう。その原因のひとつは、あきらかに憲法である。日本で生活しているひとを国民と外国人に区分し、そこに差別をもうける。それが憲法によって正当化されてきた。

4. 国際人権規約の批准(1979年)と難民条約への加入(1981年)

 公営住宅や国民年金、児童手当三法にも国籍条項をもうけ、排除する。この状況をかえたのが、難民の来日だった。

 この自国民中心主義に思わぬ一撃を放ったのが、75年のベトナム難民の来日だった。同じ年にサミット(先進七ヶ国首脳会議)が発足したことも手伝って、日本の難民受け入れに世界は注目した。ベトナム難民は、公営住宅にも入居できなければ、母子家庭向けの児童扶養手当も支給されなかった。

 英紙『ガーディアン』は、「この国(日本)にも〈人種差別〉が存在すること、他民族に対する態度に何かが欠けていることを認めない限り、事態の改善は望めない」と論評した(79年)。

 やがて、日本政府は、内外人平等を掲げる国際人権規約、難民条約を批准し、公営住宅なども外国人に開放され、国民年金法や児童手当三法の国籍条項もあっさり削除された。

 ひと握りの難民が、60万在日コリアンの処遇改善に大きく貢献したことになる(たなか2007:25)。

5. 日本の入国管理政策と難民政策

 ひとの移動を管理する国家機関として、法務省の入国管理局(入管)がある。入管の業務は「出入国管理及び難民認定法」(入管法)に規定されている。

 法務省の入管の役割に、日本人および外国人の出入国管理・外国人の在留管理・外国人登録・難民の認定などがある。もうひとつあげられるのは、非正規滞在者、いわゆる“不法”滞在外国人の退去強制である。その退去強制の過程で非正規滞在者は外国人収容所にいれられる。犯罪や強盗など人としての過ちをおかしているわけではなく、単にビザがきれただけの非正規滞在者を収容している。

 行政上の入管法に違反したすべての人を収容するため、本国にもどれない人々、すなわち難民申請者・日本人の配偶者・日本に生活基盤をもつ外国人までもがその対象とされる。さらに収容に適さない人、たとえば通院中の患者・子ども・妊婦・授乳婦さえも収容している。両親が収容され、子どもは児童相談所に保護されるという親子分離もおきている。しかも収容期間は無期限で、1年、2年、3年とつづく(やまむら2010:172-173)。

 長期収容によって拘禁(こうきん)症状になり、精神的不安定や体のさまざまな不調をうったえるひと、自殺をはかるひとや、じっさいに自殺したひとがいる。そのような状況のなかで、被収容者は長期収容者や病人の仮放免(かりほうめん)をもとめてハンガーストライキをするなどして声をあげてきた。2010年3月のハンストはマスコミにも報道され、国会でもとりあげられるなど、注目をあつめた。その結果、1年以上の収容はしないという「明文化されないルール」がつくられたようであり、仮放免されるひとがふえてきている。

 仮放免という身分は、労働資格がない、社会保険に加入できない、月に1度入管に出頭する義務がある、出頭時に再収容されることもある、県外にでるときにも入管に許可をえる義務があるなど、社会生活におおきな制約がある。

 もし、法務大臣が「在留特別許可」をだせば、不安定な生活から解放される。難民認定の数と比較すれば、在留特別許可の数はおおい。2008年の数字をみてみよう。

 2008年は難民申請が1599件に上り、難民認定者数は57人、人道的な配慮による在留特別許可は360人になったが、その大半はビルマ難民に偏重している(くさか2010:182)。

 もし難民認定されれば「定住者」という在留資格がえられる。ただ3年ごとに更新が必要であるため、「永住者」資格にきりかえる場合がおおい。選挙権がないこと以外は、日本国籍とおなじ法的権利が保障される。日本の難民認定のすくなさは、欧米諸国と比較するとケタちがいである。中尾秀一(なかお・しゅういち)の説明をみてみよう。

 日本の難民認定申請、また認定は以前より数が増えたとはいえ、欧米諸国と比較するとそれ程大きな数字とはいえません。多く[の―引用者注]欧米諸国では1年間の申請者数が数万人、認定者数が数千人に上り、1万人以上を認定する国もあります。例えば、2008年イギリスでは44,423名が申請し、7,287名が認定されています。日本の29年間の合計数よりも一年間の申請数、認定数が多いのが当たり前というのが、欧米諸国の難民認定状況です(なかお2011:147)。

 日本は、2010年から2012年にかけて、タイの難民キャンプで生活しているビルマ難民を約90人うけいれることを表明している(第三国定住制度)。これまでの日本の難民政策はどのようであったのかをきちんと検討し、第三国定住をすすめる必要がある。そして、ビルマ難民に限定せずに難民認定を積極的にしていく必要がある。

6. 旧植民地出身者と入管法―入管特例法(1991年)

 1991年に旧植民地出身者(在日朝鮮人と在日台湾人)は法律上、特別永住者と規定された。それでは、それ以前はどうだったのか。

 日本政府はサンフランシスコ講和発効直前の1951年10月に、現在の入管法の前身である出入国管理令を制定した。これは、日本に入国したり出国したりする外国人を管理するものである。1951年10月の段階では、在日朝鮮人は日本国籍をもっているとされていたため、この入管令は在日朝鮮人には適用されなかった。しかし、在日朝鮮人は1952年の4月28日に日本国籍をうしない、その時点からこの入管令が適用されることになった。しかし、この入管令はあくまでも日本に出入国する外国人を想定したものであり、すでに日本社会に存在している「外国人」を対象とするものではなかった。そのため、日本政府も在日朝鮮人や在日台湾人については特別立法が必要であるとし、作業をすすめていたが、成立しなかった。そこで、法律第126号によって、1952年4月28日の時点にすでに存在している50万の「外国人」と入管令との矛盾を回避した。つまり、入管令では日本に在留する外国人は在留資格が必要であるが、1952年の4月28日に外国人になった在日朝鮮人と在日台湾人は、留学生や観光客がもつようなビザをもっていない。そこで日本政府は法律第126号で在留資格なしで日本に在留できる制度をつくった。これはあくまで一時的なものとして想定されており、特別立法が予定されていた(おおぬま1986:153)。

 結局のところ、入管特例法(日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法)が施行されたのは、1991年のことだった。特別永住者にたいする指紋押捺制度を廃止したのは、その2年後の1993年である。そのほかの外国人にたいしては、2000年まで指紋押捺制度を継続した。

7. 日系3世とその家族に定住者ビザ(1991年)

 1990年の入管法改正では日系3世とその家族に「定住者」という在留資格がみとめられた(2世は「日本人の配偶者等」という在留資格)。定住者というビザは自由に労働できるものであり、南米からの日系人労働者がふえることになった。2008年のリーマンショック以後、たくさんの日系人が職をうしなった。日本政府は日系人の帰国希望者に「帰国支援金」を給付した。この給付をうけた場合、「3年間は再入国禁止」としたこともあり、「手切れ金」だと批判をうけた。

8. 改正入管法―管理の一元化(2012年7月から)

 2012年の改正で「外国人登録」制度が廃止され、特別永住者には「特別永住者証明書」が発行され、その他の外国人には在留カードが発行される。しかし、非正規滞在者には発行されない。今回の改正は、管理の一元化とよばれる。これまでは、外国人登録は各市町村で登録するものであり、一方で法務省の入管が在留資格を管理してきた。そのため在留資格のないひとも外国人登録は可能であり、行政サービスをうけることもできた。しかし今後は、たとえば非正規滞在者は「徹底的に排除されるか、無権利状態で地下にもぐるか」のどちらかになってしまう。

9. おわりに

 以上の内容は、国籍や在留資格による差別の一部にすぎない。国の制度上の差別だけでなく、「国民」による差別行為の問題がある。

 「これまでいっしょに生活してきた事実」をふまえるなら、「このような差別はおかしい」と感じることができる。これまで、そして、いま、どんなふうに、どれだけむきあってきたのか。それが結果としてあらわれてくる。制度にも、態度にも、関係性にも。ひとの尊厳や生存する権利に、国境線をつくるべきではない。

参考文献

大沼保昭(おおぬま・やすあき) 1986 『単一民族社会の神話を超えて―在日韓国・朝鮮人と出入国管理体制』東信堂

小熊英二(おぐま・えいじ) 1998 『〈日本人〉の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』新曜社

草加道常(くさか・みちつね) 2010 「在留特別許可の現在」外国人人権法連絡会編『外国人・民族的マイノリティ人権白書 2010』明石書店、184-187

田中宏(たなか・ひろし) 1995 『在日外国人 新版―法の壁、心の溝』岩波新書

田中宏(たなか・ひろし) 2007 「日本という国―外国籍住民の視点から」李洙任(り・すーいむ)/田中宏『グローバル時代の日本社会と国籍』明石書店、15-63

中尾秀一(なかお・しゅういち) 2011 「難民と歩む社会を目指して」米勢治子(よねせ・はるこ)ほか編『公開講座 多文化共生論』ひつじ書房、131-153

安田浩一(やすだ・こういち) 2010 『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』光文社新書

山村淳平(やまむら・じゅんぺい) 2010 『難民への旅』現代企画室

山本敬三(やまもと・けいぞう) 1979 『国籍 増補版』三省堂

リケット、ロバート 2006 「朝鮮戦争前後における在日朝鮮人政策」大沼久夫(おおぬま・ひさお)編『朝鮮戦争と日本』新幹社、181-261

用語解説

インドシナ難民:ベトナム、ラオス、カンボジアからの難民。この3国が1975年に社会主義体制になったことが背景にある。

戸籍制度:戸籍は、さまざまな規範を前提としている。異性愛、性別二元論、夫婦同姓、家制度、婚外子差別などである。皇族には戸籍がなく「皇統譜」に記載されている。結婚などで皇籍離脱する場合はあたらしく戸籍がつくられる。

関連リンク

(2011年 11月23日 掲載。2012年 4月27日 修正)


あべ・やすし (ABE Yasusi)

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