あべ・やすし(知的障害者生活支援員/朝鮮語講師)
本報告では、「識字のユニバーサルデザイン」(あべ2006b:151)の基礎的研究として、ユニバーサルデザインとしての日本語の表記改革とユニバーサルサービスとしての文字情報サービスをとりあげる。
これまで、日本語の表記は改善の余地があることが指摘されてきた。その批判のこえは社会の総体からすれば、ほそく、よわいものであった。とはいえ、日本語の表記改革をもとめる主張は、とだえることなく、うけつがれてきた。だがその批判のこえは、文字表記に規範をもとめ変革や多様性よりは同一性をもとめる社会の大多数によって、かきけされてきたのが現実である。
そのなかで、山内薫(やまうち・かおる)のような図書館員は、本や文字情報(=図書館資料)と人間(=図書館利用者)とのあいだにたち、文字媒体の障害をとりのぞく作業にとりくんできた。
1970年に結成された視覚障害者読書権保障協議会は、1971年11月にひらかれた第57回全国図書館大会において、「視覚障害者の読書環境整備を図書館協会会員に訴える」というアピールを提出し、これが決議された(おがわ ほか2006:201-202)。このアピールを正面からうけとめ、そして、1981年の「国際障害者年」の影響をうけつつ、日本の公共図書館は障害者サービスにとりくむようになった。そして、画期的な発想の展開として、障害者サービスは「図書館利用に障害のある人々へのサービス」に拡大された。そうして、日本の図書館員は文字媒体の障害をとりのぞく「文字情報サービス」にとりくむようになったのである。
読書権という理念はこうした画期的な歴史と先進性に、うらづけられている。読書権運動は議論と実践をとおしての社会的活動なのである。識字のユニバーサルデザインを実現するためには、こうした図書館員の社会活動を社会全体でとりくんでいくことが不可欠である。
ユニバーサルデザインは、ただひとつの正解をみいだそうとするものではない。「いくつかの選択肢を提供し、利用者が自分の判断でどれをどう使うかを決めていくことのほうが現実的であるし、好ましい解決方法であるという点で、関係者の意見はほぼ一致している」とされている(かわうち2006a:107)。ユニバーサルデザインは、論じるだけでは不十分である。ユニバーサルデザインの研究者の川内美彦(かわうち・よしひこ)が指摘するように、「論じることで社会に何らかの変化が生まれなければ、現場の苦しみは変わらない」(かわうち2006b:202)。そして、「誰もがそれぞれの活動の場で『可能な限り最大限に』をめざすことは可能」であるはずだ(同上)。
そこで、本報告では日本語表記の最大の障害である固有名詞の漢字には、すべてによみかたをそえることを提唱する。それは、識字のユニバーサルデザインにむけての第一歩であり、そしてそれは「現場の苦しみ」をおおきく解消するのである。
まず、ユニバーサルデザインの基本的な理念に注目したい。川内美彦(かわうち・よしひこ)が指摘するとおり、ユニバーサルデザインを提唱したのは、アメリカの「建築家であり製品デザイナー」のロン・メイスである(かわうち2006a:97)。ユニバーサルデザインは、「問題を社会的なアプローチで解決しようと考えており、いわゆる『社会モデル』をベースにした考え方である」(同上:98)。かわうちは、ロン・メイスが提唱した「可能な限り最大限に使いやすい製品や環境のデザイン」(同上:98)という視点をつぎのように説明している。
UD(ユニバーサルデザインのこと—引用者注)はこれまで省みられることのなかったニーズをも取り込んで、よりよいものづくりを行なっていこうとする考え方だが、一方で、すべての人に使いやすいなんて理想論であって現実にはありえないという批判もある。人のニーズは非常に多様だからこの批判は正しいといえるが、UDは「すべての人に使いやすい」が不可能なことであることをよく承知しているので、それゆえ定義の中に「可能な限り最大限に」と述べているのである。
「すべての人に」はゴールとして掲げるとしても、そこには行き着けないことはわかっている。しかし行き着けないとしてもできるだけえそのゴールを目指していくことは重要なことであり、その姿勢を「可能な限り最大限に」と言っているのである(同上:101)。
障害学研究者の石川准(いしかわ・じゅん)は、ユニバーサルデザインを論じるにあたって「配慮の平等」という視点を提示している。いしかわは、つぎのように説明している。
多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
たとえば、駅の階段とエレベータを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベータは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベータを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる。…中略…
要するに、障害は環境依存的なものだということである。人の多様性への配慮が理想的に行き届いたところには障害者はおらず、だれにも容赦しない過酷な環境には健常者はいない。…後略…(いしかわ2008:93-94)。
この視点にたてば、だれかがなにかを「できない」ということは、自己責任ではありえない。「できないこと」は能力の問題ではなく、権利が侵害された状態であり、社会のありかたに責任がある。あるいは、かならずしも「できなくてもよいこと」が「できるべきだ」と想定されることによって、不当なかたちで能力の障害が「発見」されたものである。この視点は、障害学の基本的な理念にうらづけられている(すぎの2007)。なにかができないひとがいて、しかたがないから社会的に支援するのではなく、社会が「できなくさせている」のである。かたよった配慮しか提供されていないからである。
障害学の基本的な理念は、「障害」を個人の問題(病理)としてとらえるのではなく、社会の障壁(バリア)としてとらえ、社会のありかたを再検討する「社会モデル」にある。
ユニバーサルデザインの研究者の川内美彦(かわうち・よしひこ)が説明するとおり、人間やニーズの多様性に、「一つのやりかたで解決する」のは不可能である(かわうち2006a:107)。そのため、ユニバーサルデザインは、「よりよいデザイン」の「よりおおくのデザイン」をめざす必要がある。
いくら社会のありかたを改善してもすべての困難や障害が解消されるわけではないという議論がある。だがそれは、「ユニバーサルサービス」という視点をぬきにした「ユニバーサルデザイン」論だからである。この点を井上滋樹(いのうえ・しげき)は、つぎのようにまとめている。
ユニバーサルデザイン(UD)は、多くの自治体や企業で進められているが、建築物や商品などのハードの部分でないソフトの部分、すなわち「ユニバーサルサービス」を同時にすすめていく必要がある。
ユニバーサル(Universal)とは、「普遍的な」、「万人共通の」、「あるいは一般のために」といった意味だ。子どもからお年寄り、病を患っている人、障害のある人など、年齢や性別、障害の有無にかかわらず、あらゆる人の立場に立って、公平な情報とサービスを提供するのがユニバーサルサービスである。つまりユニバーサルデザインのハード面だけでない、コミュニケーションや人的サポートなどのソフトの部分を担うのがユニバーサルサービスといえる(いのうえ2004:17)。
このデザインとサービスという「ふたつのアプローチ」は、識字のユニバーサルデザインを実現するためにも不可欠である。
識字のユニバーサルデザインには、出版のユニバーサルデザイン、文字(書体)のユニバーサルデザイン、表記のユニバーサルデザイン、表現のユニバーサルデザインなどがあげられる。
出版のユニバーサルデザインとは、紙に印刷された本だけでなく、マルチメディア・デイジーによる出版、大活字による出版を普及することや、文字の配色に配慮することなどがあげられる。
文字のユニバーサルデザインとは、みえやすい文字(書体)で提供することをいう。じっさい、区別のつきにくい文字のみためを改善するこころみが紹介されている(ユニバーサルデザイン研究会編2008)。
表記のユニバーサルデザインとは、そのひとにとって利用しやすい表記を提供していくことをさす。現状の漢字かなまじり文だけでなく、わかちがきをしたもの、ふりがなをふったもの、ひらがなやカタカナで表記されたもの、ローマ字で表記されたものを選択できるようにすることをいう。そして、その表記の変換を効率よくするために、機械では処理しきれない難読漢字には、よみをしめすことを徹底することが必要になる。
表現のユニバーサルデザインとは、わかりやすい表現によって、読者を排除しないようにすることを意味する。どのような表現が「わかりやすい」かは、さまざまである。ひゆ的な表現が理解しづらいひともいれば、そうでないひともいる。抽象的な表現がわかりやすいひともいれば、具体的でなければわからないこともある。文脈を共有していなければ「わかりにくい」ということは、だれでもおなじである。そういった「わかりにくさ」をなくし、だれにでも平等にわかりやすい表現をするのは不可能である。だが、その困難な問題にとりくむ必要が議論されている。
ユニバーサルデザインが「まえもって準備するもの」であるとすれば、ユニバーサルサービスは「あとから対応するもの」である。つまり、ユニバーサルデザインによって解決しえなかった障害を個別にとりのぞくのがユニバーサルサービスである。識字のユニバーサルサービスとは情報とひととのあいだに介入し、情報の理解をたすけるものである。「情報支援」といってもよい。だれもが表現し、また表現を消費する時代である。それゆえ、情報支援は、表現することを支援し、また、理解することを支援することを意味する。
ニーズを無視してしまうと、すべての情報をすべてのひとに提供する義務が発生する。だが、それぞれのニーズに注目すれば、識字のユニバーサルサービスは、それほど困難なものではない。それは、現状では最低限のニーズにさえ対応できていないからでもある。情報支援が拡大するにつれて、ニーズも拡大していくことが期待できる。図書館サービスを専門とする小林卓(こばやし・たく)が指摘するように、「供給が需要を喚起する」ということだ(こばやし2007:203)。
筆者のかんがえる表記改革の根拠は、「ことばへの権利」(アクセス権、言語権)にある。それはつまり「文字情報にアクセス」し、自分の「意見や情報を発信する権利」である(あべ2006a:138)。それは現時点においては「漢字をつかわない自由」と「情報障害からの解放」の確立によって保障される(あべ2006b:156-159)。なぜなら、漢字の使用が当然視されているがゆえに、自由に文字をよみかきできない、いや、より正確には「文字をよみかきできなくさせられている」ひとたちがいるからである。
技術の進歩によって、ある程度まで情報障害は解消できるようになってきている。だが、著作権という社会制度や出版形態の画一性によって、まだまだ情報格差がのこされている。漢字かなまじり文も、ある程度なら自動的に漢字をかなに変換することは可能である。だが、人名と地名の固有名詞の漢字となると、機械で変換するのはきわめて困難なのである。もちろん、「愛知」(あいち)や「山田」(やまだ)という漢字が変換できないのではない。ましこ・ひでのりは、つぎのように地名漢字のありさまを批判している。
地名表記「北谷」は、「きたたに/きただに(全国)」「きたや(埼玉県)」「きたやつ(群馬県/神奈川県など)」、「ちゃたん(沖縄県)」といったバラつきがある。名古屋市内の「鶴舞」は文脈によって「つるまい駅」「つるま公園/図書館」といったつかいわけがなされる。これらが旅行者や検索システムに無用の混乱をあたえているだろうことは、ほぼ確実である(ましこ2004:217)。
うえのような地名を機械に「まちがいなく」よませることなどできない。人名でも、「大(まさる)」や「学(さとる)」(さとう2007:29-30)など、人間にも機械にも、よみようがない。そのため、それぞれ人名や地名の漢字表記のよこには、かならず「よみ」をそえる必要がある。そうしなければ、ひとや地域の「同一性」が、漢字使用者と漢字をつかわないひととのあいだで成立しなくなってしまう。固有名詞の漢字は、あきらかに障害なのである。
もちろん、地名や自分のなまえの漢字を「大切にしたい」という感情は、わからないでもない。だが、そういった感情を尊重しつつも、同時に、文字表記は公共的でなければならない。ひらがなで日本語をよみかきするひとにとっては、ひらがなによって固有名詞が表記されていなければ、それにアクセスできなくなるのである。
なまえの漢字の問題について、梅棹忠夫(うめさお・ただお)は、つぎのようにのべている。
姓は先祖代々だから、いちおうやむをえぬとしても、名は親がつけるものだ。子どもの将来をおもい、社会の便宜をかんがえるなら、できるだけやさしい、よみやすい名にしたほうがよい。
だいたい、日本人の名にいちいち漢字をあてはめようというのがむりなのだ。これはまったく奇妙な習慣である。いっそのこと、漢字はやめて、名まえはカナでつけるのを原則としよう、という運動をはじめたらどうだろうか(うめさお1987:148)。
言語学者の鈴木孝夫(すずき・たかお)主張はさらに一歩すすんでいる。すずきは、つぎのように提案している。
…人の名前を「東海林」と書いて「しょうじ」と読むとか、実際にはいろいろあって大変でしょう。そこで人名漢字そのものを撤廃して、人の名前は漢字じゃなくても何でもいいとする。だって、欧米のサインというのは読めなくていいのですからね。だから、これが私の名前ですという好きな文字を戸籍に登録する。ただし、これを読む、つまり音声化するとこうなりますというその音声化の結果をかなで同時に登録させる。そして私の社会的な文書には、「すずき たかお」というかな文字で書く。「すずき」は三十何通りの漢字がある。どの漢字で書くかは、あなたの趣味です。それどころか漢字じゃなくて、ローマ字でも、それを何かの記号でキュッキュッと書いてもいい、そうすれば人名漢字にかんする混乱も役場も全部楽になりますと提案したことがある。…中略…つまり人名の音的形態は社会的なものだから、誰にでも正しく読め、発音できるようにする、ということです。これができれば社会保険の名前の混乱など、うんと減りますよ(すずき/たなか2008:166-167)。
すずきの主張は、『人名漢字の戦後史』という本でも紹介されている(えんまんじ2005:130-134)。すずきは、この主張を国語審議会で提案した。だが、その提案は「さまざまな議論を引き起こしつつ、最終的には完全に消化され切らないままにうやむやになって終わっている」という(同上:133)。この議論を、おわらせてしまってはならない。
たとえば、ウェブ・アクセシビリティ(ウェブにアクセスする権利、アクセスしやすさ)とよばれる指針がある。それは、ウェブ上の文書は、さまざまな身体をかかえたひとが利用するため、だれでも利用(アクセス)しやすいものにするべきだというかんがえにもとづいている。たとえば、ウェブページに画像を掲載するときには、その画像には「代替テキスト」をそえることが要求されている。画像を文章で説明することが要求されているのである。この指針は、現実には無視されがちである。だが、「ウェブ・アクセシビリティ」という指針があるおかげで、その重要性に気づき、自分のウェブサイトを「ひらかれた」ものにしようとするひとも、すくなからず存在する。その画像の代替テキストとおなじことが、固有名詞の漢字には必要なのである。
はたして、固有名詞の漢字にかならず「よみ」をかきそえることが、それほどむずかしいことだろうか。しばた・たけしは、言語がどのように変化するのかを、つぎのように説明している。
言語は自分ひとりの習慣を変えることで変わるものではない。他の大部分の人の慣習を変えないことには、言語が変わったことにはならない。自分ひとりの慣習を変えようとしても、それが大勢に受け入れられなければ、それはひとりの試みに終わり、ついには他の多くの人に同調しなければならない。だから、ひとりの人為はたいした力を持つようにはならない。しかし、言語へ加える意識的な力もやはり個人から始まるものだと思う。
言語への人為は、実は、休みなく試みられている。そのうちの大部分は不成功に終わり、たまに一つが浮かびあがって、大勢に支持され、それが言語変化になるのだと思う(しばた1965:21)。
個々人には社会の構成員として、社会のありかたに責任がある。いいかたをかえれば、個々人は、社会をかえていくちからをもっている。したがって、「ひとりの試み」は無力だと冷笑するのではなく、「ひとりの人為」に賛同し、そこに希望をみいだし、その「試み」に参加することが表記の改革には必要なのではないだろうか。公共性のたかい文書は、「だれをも排除しない」ことは不可能であるにしても、それ相応の配慮をする義務がある。これは排他的になりやすい文字文化を公共のものにしていくために、不可欠な作業なのである。
つぎに、公共図書館でどのような文字情報サービスが実践されているのかをみてみよう。
まず、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」のありかたを確認しておきたい。望月優(もちづき・ゆう)は「図書館利用における障害の状態とサービス方法」を表にまとめている。その表では「障害の状態」としては「図書館資料にアクセスできない」こと、「図書館員とのコミュニケーションが不自由な」こと、「来館できない」ことがあげられている。そうした利用者として、視覚障害者(全盲/弱視)、聴覚障害者(先天性・全ろう/難聴)、盲ろう者、肢体不自由者、寝たきり老人、非識字者、外国人、病弱者、入院患者・障害者施設入所者、刑務所等の矯正施設収容者などがあげらている。これらの人たちに、それぞれ個別のサービス方法が例示されている。たとえば非識字者にたいしては「かな文字へのリライト、対面朗読、音訳、文字の指導等」がサービス方法である(もちづき1999:137)。
文字情報サービスはプライベートサービスともよばれる(日本図書館協会障害者サービス委員会2003:83)。日本図書館協会による『図書館ハンドブック第6版』では、つぎのように説明されている。
プライベートサービスという語は、まだ明確に定義されていないが、次のような資料の製作のことを指す。(1)図書館の蔵書以外の資料の変換、(2)通常の変換方法ではなくとくに要求される変換(句読点まで読み込んだ録音資料、全漢字にルビをふった拡大写本など)、(3)資料全体ではなく部分のみの変換。(1)〜(3)はいずれも図書館の蔵書とはしないものである。郵便物やチラシ、個人の書類などの代筆・代読は、文字情報サービスとよばれている(ほりかわ2005:109-110)。
図書館員の山内薫(やまうち・かおる)は、図書館における文字情報サービスについてつぎのように説明している。
全国各都道府県に視覚障害者情報提供施設(点字図書館)が最低一か所は設置されているが、年賀状の宛名を20枚書いてもらうために、あるいは生協の注文書を記入してもらうために往復に何時間もかけて、交通費を使って出かけて行く人はいないだろう。
地域の公共図書館がこうした文字情報サービスの役割を果たすようになれば、利用者は、日常生活上必要不可欠な文書の読み書きを、誰にも面倒をかけずに、しかも個人のプライバシーが漏れることがないという保障のもとで行なえるのではないだろうか。
もちろんこの問題は公共図書館が引き受ければそれで済むという問題ではなく、申請書や原稿・レポート類、楽譜などはそれぞれの該当する機関(役所や学校)で点訳なり墨字訳を実施しなければならないだろう。また、電気製品には発売と同時に点字と音声による取扱説明書や使用説明書が付くようになることが望ましいが、現状で公共図書館がこうした機能を果たすことも、識字サービスという観点から言えば必要なことだろうと考える(やまうち2008:167)。
やまうちは、知的障害者にも文字情報サービスを提供している(同上:168-170)。やまうちが実践してきたように、「本と人をつなぐ」作業、「情報と人をつないでいく」作業が必要なのである。そのような情報支援には、コミュニケーションが不可欠である。ニーズを発見し、そして、そのニーズにこたえる方法を模索すること。それは、われわれが、よりたくさんのひとと「であうこと」、そして、よりたくさんの方法を「みつけること」が要求される。そうした理論と実践をおこなってきた公共施設として、公共図書館は先進的であるといえるだろう。
これまで、日本語表記についての批判的議論においても、「ユニバーサルサービス」という視点はあまり注目されてこなかった。「表記のユニバーサルデザイン」をめざすことは、すなわち「漢字表記をやめること」であると理解されがちであった。そして、「漢字をやめることは不可能である」から、「なにもしなくてよい」という反論をくりかえしうみだしてきた。だが、できることはある。そして、それはするべきことなのである。「日本語に漢字は不可欠だ」という主張を反証するだけでは不十分なのである。
固有名詞の漢字は、人名や地名にかぎらず、寺社や神社のなまえ、会社名、団体名など、かぞえきれないほど存在する。そのおおくが、確認しなければよめないものである。それにすべて、よみかたをそえることは、ささやかではあるけれども、意義ぶかい改善になる。また、表記の変換や文字情報サービスを、よりスムーズにおこなうことができるようになる。
漢字を使用するひとだけが固有名詞をつかうわけではない。いまの現状では、漢字をつかうひとだけが配慮されている。これを平等にするためには、漢字をつかわないひと、つかいにくいひとにも、配慮される必要がある。「特別あつかい」されてきたのは漢字をつかうひとたちである。「特別な配慮が必要」だとみなされているひとたちは、配慮されてこなかったひとたちなのであり、放置されてきたひとたちなのである。ここでとわれているのは、「これからも放置していくのかどうか」ということなのだ。
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あべ・やすし (ABE Yasusi)
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