あべ・やすし
※これは、権威的な体裁をした、ただのエッセイです。
2004年の4月から、チャットをするようになった。近所に友人や研究仲間がほとんどいない状況のなかでは、チャットが一番かんたんで、手ごろなコミュニケーションの手段になった。利用しているのは日本のヤフーチャットで、IDはおもに「hituzinosanpo」をつかっている。チャットは、ただたんに世間話をする場でもあるが、議論をするためにチャットを利用している人もすくなくない。わたしが参加した「チャット部屋」のなかには、「自己責任について」というのもあった。チャットで議論をすることの可能性、意義、おもしろさは、まだほとんど注目されていないようだ。しかし、「文字文化とメディア」という側面からいっても、チャットは学術的にも注目の価値があるといえる。
ではまず、チャットのしくみについて、かんたんに説明しておこう。ヤフーチャットの場合、ヤフーのIDを登録すればだれでも参加でき、色や文字のおおきさを自分のすきなように設定できる。文字だけでなく、声ではなすこともできる。ウェブカメラをつなげれば、「テレビ電話チャット」としても利用できる。チャットの形態としては一対一のチャットと3人以上でおこなうチャットがある。チャット部屋を自分で作成することができ、「地域」や「家庭と住まい」などのカテゴリーを選択できる。チャット部屋に はいりたい人は、まずカテゴリーをえらび、そこで部屋名をみて選択する。でいりは自由である。
3.1. 声による議論/手話による議論/声と手話による議論
声と手話のちがいについて、金澤貴之(かなざわ・たかゆき)が興味ぶかい議論をしている。かんたんに要約しよう。聴者が声で議論するときには、だれかの議論をさえぎり、わりこむ手段として大声をだすという方法がある。しかし、ろう者が手話で議論するさいには、手をおおきくふる程度の妨害くらいしかできない。話者交代や妨害にも、声と手話ではちがいがあるわけだ。ろう者と聴者がいっしょに討論をする場合、しかも声をだしながら手話をする聴者がいれば、ろう者のしらない間に話者が交代することがでてくる。ろう者が手話で議論していても、聴者が「でもね…」とわりこめば、きこえる人はその聴者のほうをふりむき、ろう者は議論を中断せざるをえなくなる場合もでてくる。(金澤貴之、2003年、「聾者がおかれるコミュニケーション上の抑圧」『社会言語学』3号、1-13;金澤貴之、2001年、「コミュニケーションと抑圧」)
3.2. チャットでの議論
チャット用語に「滝ログ」というのがある。部屋に人数がおおく、発言数がおおければ、ログはどんどん上にあがっていき、話が滝のように とびかう状態になる。このように、チャットは「話者交代」などに気をつかっているヒマなど最初からない性質のものだといえる。そのため、滝ログになじめない人は、発言できずに「ロム」、つまり「みているだけ」の状態になる。また、部屋にいる全員が共通の話題をはなしているともかぎらず、個人的なやりとりをしながら、共通の話題にも参加するということも、めずらしいことではない。滝ログの状態では、それぞれのログをよみつつ、それに反応しなければならず、それなりに頭をつかう。また、文字だけのやりとりであるため、ニュアンスに誤解が生じることもすくなくない。匿名性という観点からいえば、「死ね」「バカ」「病院いけ」という不適切な発言がとびだすこともある(しかし、これは苦情電話やイタズラ電話のようなものと共通したもので、チャットだからこそということではない。会議室で顔をみあわせながらチャットをすることがあれば、チャットも匿名ではなくなる)。人数がおおければ、話題がすぐにかわってしまうこともある。でいりが自由でオープンな状態でのチャットでは、それも仕方のないことである(しかし、一定のルールをきめ、参加する人をあらかじめ きめておけば、みのりある議論もじゅうぶんに可能であろう)。もちろん、なんらルールをもうけない状態でも、なんらかの合意に達することもある。
チャットの魅力は、同時性にあるといえる。声や手話で議論していれば、基本的に話者はひとりである。ほかの人は、きく側/みる側にまわらなければならない。しかしチャットなら、同時にログをだしてもなんら問題にならない。文字だからである。決定ボタンをおさないかぎり、発言としてログにあがらないという点もある。これなら、聴者も ろう者も問題なく議論ができる。文字で会話をするのが基本であり、しかもキーボードで入力しているのだから「筆談」を面倒がる人もいない。きこえない人が部屋にいるとき、声ではなす人も、ほとんどいない(もちろん、音声言語の文字によっての会話であるから、ろう者のほうが必然的に不利ではある)。これはチャットの利点として評価できる点だといえよう。ほかにも、インターネットにつながっている点を利用し、情報の真偽を確認するために検索をして、参考になるウェブページのURLを紹介することもできる。これもチャットならではの魅力である。
しかし、同時性の魅力は、「はやさ」のちがいに注目すると、欠点になりうる。たとえば、脳性まひの人がチャットに参加するなら、ログの入力はゆっくりになる。しかし、そのとき滝ログ状態であれば、話についていけなくなる。ゆっくりな人というのは、なにも脳性まひの人にかぎらない。たとえば日本語の学習者なら、読解に時間がかかるだろう。性格がのんびりしている人もいるだろう。目がまわってしまうという人もいるだろう。そういう人たちにとっては、人数のすくない部屋でなければ、なかなかなじめないという問題もでてくるわけだ。しかし、かんがえてみれば、そうした人たちは声であろうと、手話であろうと、人数がおおかったり、発言がおおければ、やはりなじめないのではないか。それならば、チャットの特徴、欠点としてあげることはできない。ただ、いろんな可能性をひめたチャットでも解決できないことがあるということだろう。
もし、だれもが不自由なく参加できる場をチャット空間につくろうとするならば、いくつかのルールをもうける必要があるだろう。そうすることで、これまでにない、ひらかれた「言論空間」をつくることもできるかもしれない。
あまりにも滝ログのときに、だれでも「まった」をかけられるようにする。まったの指示があれば、「まったやめ」の合図をまつことにする。
のんびり、お気楽にやろうという共通認識をもつことにする。
人を傷つけ、おとしめるためだけの表現はつかわないことにする。
一部の人にしか通じない表現はつかわないようにする。ただ、必要悪はみとめる。
ちいさすぎるフォント、うすすぎる色はつかわないことにする。
なんについて議論しているのか、定期的に要約して紹介する。
以上のようなルールをきめれば、みのりあるチャット討論会が実現できるのではないだろうか。ただ、「話題変更」についてのルールをつくるかどうかは、一概にいえない部分があるだろう。みんなで話をしていれば、必然的に、話題がうつりかわってくる。たとえば、ゴミ問題の話をしているうちに、ダイオキシンの問題に話題がうつっていっても、なんら不思議ではない。これは、司会者役をきめるかどうか、という問題になってくる。しかし、司会者の独断で「ダイオキシンについては議論するな」といえるかといえば、それはむずかしいはずである。結局は、「議論の内容は『なるようにしかならない』と最初からわりきる」という共通理解が必要になるのかもしれない。ルールと司会者をきめて、朝まで生テレビを再現することもできようが、朝まで生テレビのような討論会にする必要というものが、そもそもないのではないだろうか。むしろ、チャットらしさをいかすことのほうが、気もちのいいチャット討論になるだろう。
2005年 1月1日
あべ・やすし (ABE Yasusi)
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