「文化と生活のあいだ」

あべ・やすし


 近年、「多文化社会」や「多文化共生」という理想がさまざまなかたちで論じられ提唱されるようになってきた。だが、ものごとを慎重にかんがえるならば、そこで「文化」とされているものはいったいなにか、という根本的な問題をさけてとおることはできない。

 「文化」という概念に関する議論として、複数文化研究会による『〈複数文化〉のために』に注目してみたい。同書では、「はじめに」で「単一の純粋な文化」という概念に疑問をなげかけ、つぎのようにのべられている。

…民族であれ宗教であれ言語であれ、何らかの単一の「文化」の存在が自明視されるとき、そうした大文字の「文化」の名のもとに、複数の〈文化〉の微細(びさい)な運動が封じ込められてしまうことになる。そのような「文化」とはもはや、ある特定の価値規範へ人々を動員してゆくイデオロギー装置でしかないだろう。  私たちはつねに、複数の文化が幾重(いくえ)にも重なり合った網の目のなかに投げ込まれている。…中略…いかなるかたちであれ、均質な一体性をもった文化などというものは、ありえない。私たちが日々接しているのは、揺らぎや騒音をはらんだまま、どこまでも〈複数〉のものとして存在する〈文化〉なのである。こうした文化の複数的なありようを、ここではさしあたり〈複数文化〉という表現で呼ぶことにしよう(複数文化研究会編1998:1-2)。

 「文化」はただ、複数として存在するのではない。重要な点は、「複数の文化が出会う場面においては摩擦や軋轢(あつれき)が生じざるをえないし、そうした齟齬(そご)はしばしば主導権をめぐる熾烈(しれつ)な争いを呼び起こすことにもなる」ということである(同上:2)。文化の多様性には不均等な力関係による格差が存在する。さまざまな文化が不当にしいたげられているのが現代社会の現実である。そして、なかには、文化とさえみなされずに抑圧されている弱者/少数派の生活習慣も存在する。

 これまで「文化」とみなされず、ただ抑圧されてきたものとして、「ろう文化」の存在があげられる。手話を第一言語として使用する、きこえないひとたちの文化である「ろう文化」は、1995年の「ろう文化宣言」(きむら/いちだ1995=2000)によって、近年になってやっと研究者のあいだで認知されはじめた文化である。そのため、一般的にはまだまだ認知度がひくいだろうと予想される。ろう文化は、宣言されることによって、やっと注目をあびるようになった文化である。

 「ろう文化宣言」は社会的注目をひいた(現代思想編集部編2000)。だがたとえば、「はなづまりの文化」「鼻炎文化」などというものは、突然説明されても、すぐに理解されることはないだろう。いくら鼻炎の当事者である筆者がその文化としてのありかたを議論しようとも、文化の研究者のあいだでも「はなづまりの文化」はなかなか理解しがたい主張ではないだろうか。だが現に、はなづまりは生活習慣におおきく影響するものであり、ウェブ上の掲示板では、鼻炎のひとたちによる意見の交換など、一種のネットワークをみいだすことができる。そして、そのネットワークでは周囲のひとびとの態度について、しばしば不満がのべられている。

 ここで「はなづまり文化」を一例として、「文化」としての地位を確保できずにいるさまざまな生活/習慣の存在を想定してみるなら、「文化」とみなされるだけでもそれは社会的な地位がある程度は確保されている可能性がたかいという点に気づかされる。ここで、多文化共生というある種の理想をかかげる以上は、一般的には「文化」と認識されていないものをどのようにつつみこむのかという問題にいきつく。そうでなければ、すでに常識化したもの、文化とみなされたものが社会的権威をたもちつづけることになり、結果として「文化という抑圧」が生じてしまう。

 一般に「文化」とよばれるものには、ある種の「わかりやすさ」がある。しかし、ありふれた日常生活にちかづけばちかづくほど、一般的な認識では「文化というほどのものではない」とみなされやすくなる。もちろん、それを「生活文化」とみなしていく意義はたしかにある。けれども、そこまでくれば、ただ「生活」でよいのかもしれない。

 ここで重要なのは「ろう文化宣言」などのように「これは文化だ」という「宣言」さえ必要としない社会をめざすことである。もちろん、その過渡期ではさまざまな「文化宣言」がさけばれてよい。だが、生活というありふれた、けれども現に序列化されている「人間のいとなみ」をきちんと価値相対化していくことが重要なのではないだろうか。したがって、多文化主義/多文化共生の課題は、「ありふれた日常生活」にひそむ差別を解消すること、「それぞれの、それぞれなりの生活」を保障することである。


参考文献

現代思想編集部編 2000 『ろう文化』青土社

複数文化研究会編 1998 『〈複数文化〉のために―ポストコロニアリズムとクレオール性の現在』人文書院


(2011年 7月4日 掲載)


あべ・やすし (ABE Yasusi)

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