ベジタリアン宣言

あべ・やすし

1. 人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ。

 鶴田静(つるた・しずか)は『ベジタリアンの文化誌』で、つぎのように説明している。

ベジタリアンは主義の貫徹者などではない。どのように生きるか、どのような社会を望んでいるか、その考え方の表現者なのである(31ページ)。

 ベジタリアンを菜食主義者ということがあるが、これは単純な翻訳の問題ではない。それぞれ ちがった定義である。

 ベジタリアンとは、なんらかのかたちで肉食に制限をおいているひとのことである。英語で「まったく肉をたべないひと」は、ビーガン(vegan)という。ベジタリアンには いろいろと類型があって、サカナは たべるベジタリアンとか、トリ肉は たべるベジタリアンなどがいる。

 「菜食主義」といってしまうと、肉食を完全に拒否しているひとというふうに感じられてしまう。だから、「菜食主義者」はベジタリアンの一部をさす表現であるとはいえるけれども、ベジタリアンの全体をよびならわす表現には なりえない。ベジタリアンも肉をたべるのだ。肉を まったく たべないベジタリアンもいるということなのだ。

 なぜ肉をたべないか。それは、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から、ある肉や あらゆる肉をたべないことにしているのだ。それがベジタリアンの実態である。そして、人間すべての本質でもある。つまり、ひとは すべて、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から たべるものをえらんでいる。すべての食材をたべるひとは どこにも いないのだ。

 もし、紙をたべているひとが いるとして、そして、紙には栄養分が ふくまれているとして、あるいは空腹が みたされるとすれば、紙もまた食材になる。その要領で あれやこれやを食料ということにしてみよう。そうすれば、人間が たべているものなど、ほんとうに選択的で、ごく一部だけであることが実感できるだろう。

 肉をたべないのは、やせがまんだとか、不幸だとか いうのならば、ヘビやカエルやネズミやミミズやスズメバチをたべない自分の食生活をふりかえってみることだ。

 ベジタリアンは なにも特別なひとたちではない。あきらかに人間の本質の延長線上にいる。どこにでもいる、そのへんの ひとたちである。肉をたべるベジタリアンは矛盾じゃない。ベジタリアンは、人間そのものなのである。

2. わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ。

 野菜をたべるという点において、あるいは、あかちゃんなど、肉をたべていないという点において、わたしたちは、みんなベジタリアンです。ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがうということです。わたしが問題にしたいのは、つぎのような潔癖主義です。

 「肉をちょっとでも たべているならベジタリアンではない。」「その資格はない。」「そう名のるべきではない。」とんだ たわごとです。潔癖主義にたつことで、たくさんのベジタリアニズムを否定し、おとしめる。

 奇妙なことに、「肉をちょっとでも たべているならベジタリアンではない」と かんがえるのは、ベジタリアンを自覚しているひとではありません。なぜか、「自分はベジタリアンではない」と意識しているひとが、潔癖主義にたって「たくさんのベジタリアニズムを否定」しようとしているのです。

 きょうは、野菜をたべよう。そんなとき、あなたは すてきなベジタリアンです。きのうは肉をたべました。それでも、あなたはベジタリアンです。そういった ゆるい思想。ゆるい連帯。資格をとわない社会運動が必要なのです。

 きょうは、これだけする。きょうは、やすむ。けれども、めざすところは、脱肉食である。野菜をたべることをたいせつにする。

 わたしたちは、すでに みんなベジタリアンです。そして、思想的ベジタリアンになるならば、脱肉食に、さらに ちかづきます。わたしたちは、脱肉食に もう すでに あゆみよっています。そこを、さらに あゆみよることができるのです。肉食の不合理を意識することによって、ベジタリアンの思想を獲得できるのです。

 「これって、だれしも そーだよね」。そんなふうに感じるとき、ひとは共感をしめします。親近感をいだきます。わたしは、肉食をへらすことを社会運動のひとつとして かいています。わたしは、一部の少数がやっている社会運動を、もっと多数派をまきこんだ運動にしていきたいのです。

 ベジタリアニズムとは、いったい なにか? わたしは、そんなことは、ひとそれぞれ ちがっていいと おもいます。意識して議論しなくても、それは いいと おもいます。けれども、肉食とは、いったい どのような行為なのかという点について、もっともっと議論していく必要があると おもっています。

 現代世界の構造において、肉食がどのような位置にあるのか。肉食の構造といいますか。それを、じっくり みていきたいと おもっています。資格をとわない ゆるい「ベジタリアン社会運動」をしていきながら、肉食について再検討していきたいと おもいます。

3. いきた動物を ころして、たべる。

 わたしが はじめて脱肉食(ビーガン)をやっていたのが高校1年のときからで、高校3年のころからビーガンから「サカナをたべるベジタリアン」になりました。

 大学に はいってからも、しばらくはサカナをたべるベジタリアンだったのですが、チューカ料理店でアルバイトをはじめてからは、肉をたべることに制限をおかない生活になりました。

 あのとき、わたしが おおきく誤解していたのは、ベジタリアニズムを二者択一で とらえていたということです。べつに、毎日 肉をたべてもベジタリアニズムに矛盾しないのに。「肉食に制限をおくのは、もう やめた」。そんなふうに かんがえてしまったのです。いま ふりかえると、残念なことをしました。なぜなら、わたしは肉に たよらない料理をつくるのが、かなり上手だからです。

 肉をたべることに制限をおくのをやめても、わたしが こだわりつづけたのは、肉をたべるひとは、動物を、なんのためらいもなく ころすべきだということでした。

 あるとき、じっさいにニワトリをころす機会をいただきました。ニワトリをころす機会をもらえて、たいへん感謝したのです。「まえから夢だったんですよー」と、お礼をいいました。ですがその当日、わたしは遅刻してしまったのです。いってみたら、ほとんど おわっていました。それでも、ておくれでは ありませんでした。わたしはニワトリを一匹ころしました。首の両側に包丁で きりこみをいれて、さかさに つるすんですね。そしたら、ばーーと血がでる。しばらく つるしておいて、それから熱湯に いれて、毛をむしる。内臓をとっておく。内臓も たべるんですよ。もちろん。とても たのしかった。

 で、シチメンチョウも のこっていたので、だれかが ころしたんですね。そしたら、血の量がニワトリより断然おおいわけです。あれは圧巻でした。ぶわーーーーっと。

 宮沢賢治(みやざわ・けんじ)は、鶴田静さんが『ベジタリアン宮沢賢治』という本をかいているように、菜食の思想をもっていました。その宮沢賢治が、「毒もみの好きな署長さん」という小説をかいていることに、わたしは ものすごく共感するのです。

 署長さんは、法律で禁止されている毒もみをやってたんですね。川に毒をながして、サカナをころしてしまう毒もみを。そして、それが ばれて、署長さんが いうのです。ああ、たのしかったと。そんな短編小説です。

 わたしは、こどものころ、いきものをころすのが だいすきでした。けれども、だいすきだからこそ、なるべく ころさないで いようかなと、あるとき おもうようになったのです。

 ベジタリアニズムは、一枚岩では ありません。いろいろ あります。だから、ベジタリアニズムとは なにか?なんて議論は したく ありません。わたしは、どうするのか。その主体的な一点だけ、かんがえたいと おもいます。

 けれども、肉をたべるとは、どういうことなのかは、じゅうぶんに議論する意義があるはずです。

 いったい、肉で腹をみたすために、どれほど ゼータクなことをしているのでしょうか。

4. 畜産物と農産物は、質的に ちがうものだ。

 わたしが ここで いいたいのは、「あなたもベジタリアンになれる」ということです。そして、すでにベジタリアンであるひとが、「なんちゃってベジタリアン」とか「エセベジタリアン」と自嘲的に自称する必要なんかないということです。

 わたしは、「資源を消費するという意味では、農産物も畜産物も、みんな大差ない」という発想を、ぶっこわしたいのです。

 スーパーに いってみましょう。いろんな商品がありますね。野菜もあれば、肉もある。どれも値段が ついてますね。そうです。野菜も肉も商品です。どちらにしたって、「たべもの」という点で おなじです。そうです。そういう発想で、わたしたちの日常は なりたっています。農産物と畜産物のあいだに、質的断絶をみいださずにいます。これが、わたしたちの「たべるということ」の、いびつな政治性です。 肉をたべるには、動物をそだてなければなりません。さて、どうやって そだてましょうか。水をあたえるだけでも、たいへんな資源を消費します。水は ただではありません。動物は、水だけでは そだちません。穀物などの えさが必要となります。

 『世界の水危機、日本の水問題』というサイトの「畜産や工業生産とバーチャルウォーター」のところに ご注目ください。バーチャルウォーターとは、仮想水と訳されます。ウィキペディア - 仮想水をご覧ください。

「仮想水(かそうすい、virtual water)とは、農産物の生産に要した水の量を、農産物の輸出入に伴って売買されていると捉えたものである。ヴァーチャル・ウォーターともいう。世界的に水不足が深刻な問題となる中で、潜在的な問題をはらんでいるものとして仮想水の移動の不均衡が指摘されるようになってきた。

 ウィキペディア - 肉食では、つぎのように説明されています。

牧畜は、大量の資源を消費する。特に、直接間接を問わず水資源の消費が膨大である。例えば、小麦を1キロつくるには2トンの水が必要で、10キロの小麦から1キロの牛肉が採取できるため、牛肉1キロを生産するには20トンもの水を使用している。 実際に大規模な畜産業が発達しているアメリカでは牛肉を大量生産するために地下水を大量に使用している。

 島村奈津(しまむら・なつ)/辻信一(つじ・しんいち)の『そろそろスローフード』をみてみます。「菜」は島村さんで、「辻」は辻さんです。

菜 牛やブタについていうと、私は餌の問題が一番大きいと思いますよ。日本は、戦後アメリカに押しつけられて、トウモロコシの大輸入国になった。今もフードマイレージを引き上げている最大の要因は動物の飼料でしょう。
辻 餌としてはトウモロコシなんですか?
菜 ええ、あと麦やふすま、はじめ2つには遺伝子組み換えの問題がある。大豆はアメリカ全体で80%くらいが遺伝子組み換え、トウモロコシは60%を超えた(23-24ページ)。

 島村は、「アメリカが遺伝子組み換えに無頓着なのは、基本的に飼料として動物か日本人に食わせるからだっていう人もいる」ことを指摘している(56ページ)。

 トウモロコシや大豆が「ウシのえさ」にするために大量に つくられ、大量に消費されている現状では、トウモロコシや大豆を「ていねいに そだてる」という発想には たてなくなってしまう。だがじっさいには、ウシだけが たべるわけではないのである。大豆が「アメリカ全体で80%くらいが遺伝子組み換え」であるという事実は、もっと注目されてよいはずです。

 『実践の環境倫理学-肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ』で、田上孝一(たがみ・こういち)は、つぎのように解説しています。

トウモロコシや大豆は、牛にとっては不適切な飼料であるが、人間にとっては適切な食品である。人間がそのまま食べられる食物をわざわざ牛に与えているのである(116ページ)。

 有機農法で大切に育てた作物であればこそ、それを人間が自ら頂くのではなく、結局は殺してその肉を食らうため、そのまま人間が食べられる分の何倍もの量を動物に与えることの無益さが、なおさら実感されるのである(131ページ)。

 ベジタリアンも肉をたべると いいました。けれども、「ニワトリとかは たべないけど、ウシだけは たべるベジタリアン」というのは、あんまり いないと おもいます。なぜって、農産物と畜産物のあいだにある断絶を意識しているからです。けっして、それを連続体とは、みなさないからです。

 どちらでも いいです。そういうベジタリアンに、なってみませんか?

 「ウシは たべない」だけでも十分です。ベジタリアンするのは、「たまに」でも いいです。「なるべく」でも、「なんちゃって」でもいいです。農産物と畜産物を同列に とらえるのは、もう やめましょう。


 くりかえします。


 きょうは、野菜をたべよう。そんなとき、あなたは すてきなベジタリアンです。きのうは肉をたべました。それでも、あなたはベジタリアンです。そういった ゆるい思想。ゆるい連帯。資格をとわない社会運動が必要なのです。

 きょうは、これだけする。きょうは、やすむ。けれども、めざすところは、脱肉食である。野菜をたべることをたいせつにする。

 わたしたちは、すでに みんなベジタリアンです。そして、思想的ベジタリアンになるならば、脱肉食に、さらに ちかづきます。わたしたちは、脱肉食に もう すでに あゆみよっています。そこを、さらに あゆみよることができるのです。肉食の不合理を意識することによって、ベジタリアンの思想を獲得できるのです。


参考文献

書籍

島村奈津(しまむら・なつ)/辻信一(つじ・しんいち) 2008 『そろそろスローフード』大月書店

田上孝一(たがみ・こういち) 2006 『実践の環境倫理学-肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ』時潮社

鶴田静(つるた・しずか) 1988 『ベジタリアンの文化誌』晶文社

鶴田静(つるた・しずか) 1999 『ベジタリアン宮沢賢治』晶文社

宮沢賢治(みやざわ・けんじ) 1996 『ビジテリアン大祭』角川文庫


ウェブページ

宮沢賢治 ビジテリアン大祭(青空文庫)

宮沢賢治 毒もみのすきな署長さん(青空文庫)

仮想水 - ウィキペディア

肉食 - ウィキペディア

フードマイレージ - ウィキペディア

ベジタリアニズム - ウィキペディア

東京大学生産技術研究所記者会見 『世界の水危機、日本の水問題』



 この文章は、わたしがブログで かいたベジタリアンについての文章を要約して ひとつに まとめたものです。もとの議論と その後の議論は、以下のとおりです。


(2008年 7月19日 掲載)


あべ・やすし (ABE Yasusi)

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